小田原人のこと

   

小田原市議会では、「議員の各議案に対する賛否の公開を求める陳情」が否決された。これは小田原らしい特長と考えるべきだろうか。
自分の意見をハッキリする事は、あまり賢明なことではない。とされてきたのが日本の風土である。どうもこれは室町時代以降の日本人に表れて来た性格らしい。移動の出来無い、未来永劫その場所に住み続けるという、生活形態の中から生まれた、生きる知恵のようなものだろう。だから、これは小田原だけの事ではないといったほうが良い。むしろ、何故小田原市議会が古い日本人の特性を残しているのか、と言う方を考えたほうが良い。小田原の人は、用心深い訳ではない。どちらかと言えば、初対面で、おせいじやおべんちゃらで、あたりを見る。と言うようなことはない。本音を最初から見せるほうだと思う。舟原に来て10年だが、初対面から印象が変わったと言うような方はいない。だからとても暮らし易い。

小田原の市議会議員というものの位置づけが、他と違うような気がする。市議会議員が、市議会において、具体的課題を審議すべき存在と言うようには、位置づけられていない。ここが、ちょっと特殊な気がする。だから、市議会議員の責任と言う事が問われることがない。そのためなのか、市長の責任というものは、つよく問われる。市議会のネット中継というものを見るようになって、そのことがある程度わかった。市議会は審議する場ではない。審議に責任を持つような場になっていない。そんな議論になっている。言ってみれば小田原評定である。議員各自の意見表明が並ぶ。それぞれの意見を述べられているが、その議論を通して、具体的に何かを動かすと言う事は目的とされていない。そういう実際的なことは、どこか違う場で進めることと成っているようだ。その違う場がどこなのか。この辺は部外者には見えない所というのが、意味があるようだ。

こうしてあえて、勝手な考えをブログで書いているだけでも、風は当る。しかし、物言えば唇寒し、を無くすにはドンドン発言する。それが「他の者」の、役割だろう。と覚悟している。「他のもの」とは小田原独特かもしれない。地の者に対する言葉だと思う。自分の考えを表明して暮してゆくのが、不都合かと言えばそんなことは全くない。しかし、小田原の市議会議員は自分の考えを表明することは出来るだけ避けたいらしい。その心理はわかるが、理由がさすがにない。市議会議員の存在はあらゆる角度から、公的存在である。その人の議会での賛否を少しでも隠したい。城下町ホール問題では、賛成した議員の責任は少しも問われなかった。とんでもない進め方に賛成しておいて、出来上がってから市民の反対に便乗し、反対を表明する議員が目立った。多分議会の表面上の意見表明とは別に、城下町ホールも根回しのようなもので進んだのであろう。

市民参加方式が現在進められている。議会軽視とか言う事が出そうであるが、今の所そうした議論は聞かない。市民参加の協議会方式であろうが、審議会方式であろうが。議会が議論の内容に、深い興味はないのかも知れない。ごみ問題を何とかしたと言うような、具体的な懸案で議員に成っている人が少ないのかも知れない。広域ごみ処理については、沈黙が支配している。市民に協議会として意見が求められることもない。こういう状況を打破するのが、本来なら市会議員の役割ではないだろうか。重大な場面が過ぎさって行く。行政としては、結論を出してから、パブリックコメントで意見を聞いて置く、と言うような従来の方式を想定しているのだろう。形式主義で済ます。本来なら、ごみ処理広域方式の是否が問われる所から始まるべきだが、そうした議論が、議会で行われたことはない。

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