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写生講習会開く

   

4月25日(土)水彩人写生講習会を行います。講師は私が行います。誰でも参加できます。

場所は、江戸川区の中川船番所跡にある、中川水彩パークセンター 小雨決行、東屋があります。

春季展会場(船堀タウンセンター)に戻り、4時から6時まで、講評会を行います。

集合は東大島駅大島口改札口前(2階)に10時です。写生地までは歩いて5分。

写生地にはベンチはあります。トイレ、東屋、水道はあります。

喫茶店があり、軽食程度はあります。しっかり食べたい人は昼食持参。

講習料は1000円。

注意事項:公園管理者には許可をいただきましたが、一般の来園者の迷惑にならないように、注意して行うようにと言うことでした。

問い合わせ、申し込みは メール sasamuraizuru@gmail.com まで

どんな講習会をやるかに当たり、私の写生画に関する考えを書いておきます。この考えと違うと思う方は参加しないで下さい。絵はそれぞれのもので、考えも様々です。私の絵を見て、参考になるかも知れないと思われる人のみ、参加して下さい。

下見に行ったときに描いたものです。

「写生画について」

毎日写生で絵を描いている。その絵はホームページに日曜日毎に掲載を続けている。現在1800枚になっている。2020年5月17日に1回目を始めた。日々の一枚には少し足りない。石垣島に来てからホームページに絵の掲載を始めた。

それまでの絵を捨て去るために、何もないところからやり直すためだった。絵を深めると言うことは、自己否定をすることだと思う。自分の絵の模写をしているだけの、老人画家だけには成りたくなかった。未だかつてない自分の出現に期待して、石垣島に来た。

絵は写生で描いている。風景を見て描いている。このやり方で50年ぐらいはやっている。今回写生の講習会をやるに当たり、もう一度写生画とは何かを考えてみた。絵は教えることなど不可能である。技術は伝えることは出来るが、技術を教えることは、その人の絵をダメにすることだと考えて居る。

絵を描く技術は、腕が覚えるものだ。絵を描く手順など災いがあるだけのものだ。絵の技法書は、塗り絵指導だ。絵を描いて、描いて、描いている内に腕が覚えてくるものが、その人の絵技術だ。水彩画の技術は極めて複雑で多様である。50年毎日描いてきたのに、未だに新しい技術に出会う。

水彩画の技法はまだ発見され尽くしていないのではないか、と考えて居る。過去の水彩画の技法は、タナーにしろ、クレーにしろ、水彩の領域の限界にまでは達していない。それくらい未知の技法が存在すると考えて居る。

自由に,未だ試みてみたことのないやり方に、日々挑戦する必要があると考えている。そのことから、新しい自分の発見につながる。しかし、自分を越えることが必要な人もいれが、自分を守ることが大切な人もいる。私は自己否定を信念にしてやっている。

その挑戦の仕方は、まず自然を見ることである。見ると行っても実は絵を描く眼で自然を見ると言うことは、なかなか難しい。写真に写るように見ることは、日常の目で見ると言うことであり、それでは絵の世界の見るではない。絵の世界でのみるは、視覚のその裏にあるものを見ると言うことになる。

まるで写真のように描くという一つのリアルの価値観は、危ういことだと考えて居る。多くの水彩画がここにとどまりがちだ。それはわかりやすい価値観だからだ。その価値観は世間的には、上手だと評価されがちなために、そこから抜け出せなくなる。

現実の世界を克明に写す写生画は、芸術とは関係がない。芸術の基本にあるものは、自己表現である。自分の世界観を絵によって表すことが、芸術としての絵画の目的である。それが誰とも同じであるとすれば、明らかに芸術ではない。上手か下手かの違いはあっても、それは現実の説明に過ぎない。

世界を説明することは芸術の目的でははない。見えている世界を写生画として現わすことは、自分の内部世界の表現の為に、見えている世界をよりどころにしているに過ぎない。見えている世界の中に自分が表現すべき思想が内在しているかどうかなのだ。

もし見ているままでそれ以上ではないとすれば、それは自己表現するべきものを自己内部に持たないと言うことになる。芸術を行う意味を持たないと言うことになる。自己内部に表現しなくてはいられない世界が、どれほど強くあるかが問題になる。

自己内部に表現したい世界がないのであれば、芸術としての絵画を描く必要はないことになる。それでも絵を描きたいのであれば、あくまでデザインとして、世界の説明として絵を描くことにとどまるほかない。私がやろうとしていることとは、違う。

自己内部の世界とはなにか。これは人によって違ってくるのであろうが、目の前の風景を見て、その無限に気づく驚きである。海の青に気づく。海の青の美しさに感動する。その輝き、透明感。見ている内に、そこにある世界の調和。大きさ。豊かさ。偉大さに感動すること。

それが自分の存在の、消え去ることを示している。永遠と生きている時間のこと。生きた刻印としての絵画。人間存在の悲しい在りようを、絵として残してみたいということ。それが自然が作り出す、その空間を見ていることから生まれてくる。

絵にする以外に表現できない、海から見えてくるものがある。それは草の波から見えることもある。空の雲から見えることもある。光のまばゆさから、記憶が呼び起こされる。記憶と、見ている世界とが、行き来して描く絵が現われることがある。

それを待って風景を見ている。見ている風景を描くわけではない。あくまで目の前にある風景は記憶に連なる材料である。描くのは自分の中にある絵である。海を見ながら山が見えてきて描くこともある。庭を描くこともある。あくまで見ている世界は絵に入って行く入り口である。

眼前の世界は絵を見つける材料になる。世界は余りに多様で、微妙で、魅力的だ。しかし、どれほど魅力的なものであろうとも、それは自分の絵の世界とは別物である。自分の絵の世界の扉を開けてくれる材料に過ぎない。どう扱ってもいい。

雲を描くとすれば、誰もが自由になれる。海を描くとすれば、これもかなり自由だ。どう描いたところで、海だと言えば海だし、空だと言えば空だ。まずは自由になりやすいものから始めることだ。そうして、白い雲を,青く描いたり、ピンクに描いたり、自分の世界の構成物に変えて行く。

そして外してはならない大切のことは、自分の海であるか。自分の空であるかだ。それは山でも、木でも、花でも、同じことで、黄色い花を、赤く描くとしてもそれが自分の絵だ。何をやってもいい。写生画なのに、写し取るのは、自分の内部世界になる。

自分の内部世界を画面に広げて行く為の材料が、眼前の風景になる。内部世界は深い底のない深度がある。外部の風景は多様で複雑である。この両者の交流のようなものが、風景を前にして描くと言うことなのではないかと思っている。多様な風景の中にある材料を自分の内部世界をたぐり寄せる参考にしている。

あくまで描かれるものは記憶の世界である。今見ている現実は、絵の入り口である。記憶に蓄積された画像が、目の前にある自然に促されて、現れ出る。それを腕が描いていく。一切無心である。描いていることすら忘れることが目標である。

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