地鶏の放し飼い
比内地鶏やみやざき地頭鶏の名を語った、食品偽装が相変わらず、問題化している。今更と言う内容で、本質から外れては居る。吉兆での居直りが、目に余るものがあって、但馬牛と佐賀牛を偽装したと言う事で、佐賀の畜産農家が怒っているという。吉兆の良くないのは、下の者がやったことだと、会社の幹部が居直っている点だ。もし本当にそうだとすれば、アルバイトが勝手に日付を変えてしまえるような管理体制と言う事で、食品販売をする基本のシステムが出来ていない。今に至れば、世間で販売されている大半の食品が「あやしい」と言う事が見えてきたと思う。食は自己責任。饅頭が古かろうが、お腹が痛くなったという人が居ないのだから、私にとってはどうでもいい。製造年月日から、賞味期限に変えたのも、外圧によっているそうだ。当時はもっともらしい理由が言われたが、予想通り、食べる人の判断力が鈍った。
国際基準とか、グローバリズムとか、まるで倫理のように唱えられるが、各国の利害のない混ぜに成った所産だ。日本が日本流を通せないのは、日本の工業製品の輸出為に、日本人の暮らしがゆがめられている。と言う事だ。「そんなことを言ったって日本人の豊かな暮らしは、企業なくしてどう維持できるの。」こんな風に思う人が多い。これが大間違いのもと。本質的に考えれば、豊かな暮らしとは脆弱な暮らしではない。豊かさとは、その根源まで把握されていることだ。素性のわからないものを食べ、素性の良く判らない、もしかしたら、どこかの誰かが泣いているような、お金で暮らすのは、すこしも豊かじゃない。
地鶏の放し飼いの規定だ。先ず、放し飼いは飼育の上で、大変だと言う事がある。だから、放し飼いを平飼いと言い換えた。自然養鶏を自然卵養鶏と言い換えたセンスだ。似ているけど、本質的には全く違う。「平飼い」は檻に閉じ込めたケイジ飼いではありません。と言う点ではいいように聞こえるが、実は平らな床にぎしぎし押し込めて、その床が三段とか言うのもあるのだ。「放し飼いなど意味がない。」有機農業研究会では言い切った。わざわざ農水に放し飼いは不要の、請願書まで出している。日本の有機農業者のレベルはその程度のものだ。鶏には放し飼いが必要だ。本当に鶏を飼えば、すぐ判るはずだ。それが判りたくないから、あれこれごまかす。それぐらい、放し飼いは大変なことなのだ。
しかし、地鶏の規定での放し飼いは何と、1㎡に10羽以下の事と成っている。何足ることか。これじゃ放し飼いにはならない。放し飼いとは緑豊かな自然への放牧の事だ。こんな当たり前の事が、理解されない。鶏が健康に育つ、為の放し飼いは草一本ない、ほこりの立つような炎天下へ放すことではない。基準などいつもそうなのだ。放しているとは名ばかりの、屋根がない。というだけの過密。放牧地は常に草があるように、4区画程度に分ける。1坪1羽がせいぜいの所。その程度にしなければ、放しても意味がない。意味がないから、放し飼いは無駄だ。等との暴論が出てくる。大切に鶏を飼った事がないから、その辺の事がわからないのだ。
放し飼いをしても、一回目の放し飼いはいいが、二回目以降は糞の上だ。というのが農水の議論。常に新鮮な土壌に出さなければ、意味がない。だから放し飼いは大変だし工夫が居る。土地の高い日本では無理だとまで、農水では議論されている。とんでもない事だ。日本の消費者は土地が高いからまがい物でいいという議論だ。と言っても、比内地鶏の場合、ケイジ飼いのほうが肉がやわらかくおいしいといわれる。こんな意見が出ている。消費者が鶏の味がわからないから、ブロイラーを利用した、ごまかしが出来る。こんな情勢の中で、放し飼いをしてきた。1羽1500円だ。おいしいといってくれる人は居ないわけではないが、確かに売れない。私は売れなくてもいいのだが、本当におかしなことだとは思う。