新垣栄用さんの甕
甕が好きだ。甕は20個ぐらいある。好きだからいつの間にか集めてしまった。貰ったものや拾ったものもある。どこかに出かけるとつい甕に目が向く。備前の良い水甕が家の玄関にある。これは備前に行ったときに、甕を見て歩いているうちに、鬼が城というお店の傘立てになっていたものを、格安で分けてもらった。割れているものをセメントで直したものだからだ。ネットで探したが今はどのあたりかもわからない。かなり大きな甕なのだが、ウキウキして車に乗せて帰ってきた。20年以上前のことになる。牛窓に絵を描きにゆく都度、備前で甕を探していたのだ。その後もいろいろ甕は探していたが、沖縄の古酒作りで甕が使わる。ベトナムで作られた、安南という甕である。なかなか良い土で焼かれていて、良い色の物がある。この安南が沖縄では普通に売られているのだが、つい沖縄の甕だと誤解されている気がする。確かに昔は沖縄の土で焼き締めの壺があった。しかし、最近の泡盛ブームで古酒に人気が出て以来、到底沖縄物では間に合わず、酒造会社がベトナムに依頼して作るようになったらしい。
手前の物が新垣栄用さんのもの
骨董屋の中にはこの安南を、壺屋焼きと称して販売している場合がある。その違いは土の違いからくる緩さだと私は見ている。沖縄の壺屋焼きの壺は、新垣栄用さんという方が作られている。たたきの技法である。現在読谷村の方に工房だけはある。この方の工房には2度行ったことがある。がらんとしたずいぶん大きな工房である。巨大なシーサーや大きな甕が置かれていたが、もう制作をしている感じはなかった。もともとは那覇で作られていた。沖縄の土はそれほどの高温には絶えないようだ。だから焼しめて泡盛を入れる甕を作るには、中に釉薬をかけたりする。あるいは土を強くたたきながら、強くしてゆく。そのために安南物とは違う形態になる。緩くなるのだ。狭い窯に3段に積み上げて焼くので、下の段はよほど厚いものにしておかないとならない。上の方で焼くものは軽く作る。だから同じ5升甕で、4キロくらいから、8キロくらいまである。色も、上部は備前風になるし、火の当たらないところは、灰色のような一見生焼けなのかという色になる。壺屋焼きの壺は耳のつけ方に思い切りがある。この1斗壺も3つある。店舗のデスプレーに使われていたものを分けてもらうことができた。気にしていると、いろいろ機会はあるものだ。
1斗壺
甕の魅力はあくまで実用である。どう作れば壊れにくく、水漏れが起きないか。自分の表現とか、個性とかが出てくると煩わしいだけである。この実用を貫いた先に、造形美がある。その造形美がなぜか、人間の魂のような形になる。本気で実用に作ったヘタレである。ここが良い甕の見事さだと思っている。何しろ揮発しやすい焼酎を20年も寝かそうという実用である。備前の甕にも面白いものがあるが、意図が働いたものは私は嫌いだ。灰かぶりでもわざわざ付けたようなものはいやらしいばかりである。焼しめてゆく過程で、付いてしまったというような感じが良い。自然にゆがんだものはまだいいが、わざわざゆがめた形など嫌味でしかないだろう。
庭に置いてあるもの。
まさに新垣栄用さんの甕の形は造形というより実用から出た形だ。そのところが特に気に入っている。甕がなぜ好きなのかと言えば、甕は魂だからだ。大原美術館に行ったとき、陶芸館の2階に上がったら、人の気配がする。どなたか先に見えた方がいるのだと思いながら、並んだ作品を見ていた。さらに強い視線を感じたので、振り返ったら、そこに壺が置かれていた。それは浜田庄司さんの作品だった。その時壺には魂が宿るのだと知った。沖縄に行く都度、壺を見てきた。しかし、なかなか沖縄の魂らしい壺には出会わなかった。沖縄の陶芸は北海道のクマの木彫りだ。お土産品のようでつまらないものだというのが、結論である。ところが、やっと沖縄の魂のような壺に出会った。それが新垣さんの壺だ。実にゆるいのだの。なんくるないさとそしらぬ様子である。緩いが堂々としている。