テロは明日あるかもしれない。

   

日本政府がアメリカべったりの外交方針を続けている。この結果パリでは、オバマ大統領とも、プーチン大統領とも会うことが出来な立場だ。その結果日本はテロの標的として、危うい立場だけが現実化してきている。明日テロが起こる可能性すらある。地下鉄サリン事件を思い出せば、テロを完全に防ぐことなど、不可能という事だろう。昨日、警察はソフトターゲットのテロ対策の強化という事を表明した。表明しただけで、現実に何か対策があるとは思えない。アメリカではまたテロが起きた。猛獣による乱射事件は日常的な事件になっている。その結果、又銃が売れているそうだ。販売が過去にない状況だと報道されていた。テロがあると銃が売れる、その銃が次のテロの武器になる。この描く循環を絶つことができないのが、力こそ正義の思想の結果である。自己責任社会の行く先である。

テロという暴力に対して、身を守るための武力でいくら身構えたところで、果てしない戦いが続くという事になる。テロが起きないためには、極端な暴力に依存するゆがんだ思想が生まれない社会を作ることだ。オウム事件をよく考えてみればわかる。オウムの信者がなぜ生まれ、有能な人たちがなぜ巻き込まれていったかである。このままでは社会がおかしくなるという、共通の不安がどこかにある。すでにおかしい社会という意識も強いのだろう。こういう社会不適合というものは、どのような社会にもあるのだろうが、社会に対して、暴力で危害を加えようというまでに高まるには、社会の在り方に問題がある。社会と個人の関係におかしい部分がある。無差別殺人を犯した人自身その理由は明確にはわからないだろうし、オウムという集団をいくら調べても、個別的には明確には出来ないと思う。しかし、俯瞰的に見れば、そうしたことが起きてもやむ得ない、日本の社会状況ではないかという事も見える。

テロを完全に防ぐことは出来ない。幾ら国民番号制で徹底的に盗聴をやって、情報収集をしたとしても、意味不明の無差別暴力犯罪は起こる。社会自体が、極めて強いストレス状態になっているからだ。常に頑張っていないと落ちこぼれてゆく不安。能力を磨き続けなければ、落ちこぼれてゆく社会。黙ってお百姓をしている人に対して、国際競争力のある農業をしろと迫る社会。ただ百姓として働いているという事では、無能扱いを受け社会から落後してゆく社会。総活躍だと発破をかけられ続け、個人も、地域も、企業も、国も、経済の競争にしがみついている社会。競争に勝っている間はまだしも、インドネシアでも中国の新幹線に敗れ、あらゆる分野で、これが日本かというような、ばかばかしいような失態が続く。山手線の新車の入れ変えの失敗など、いったい誇れる日本の鉄道はどこへ行ったのかと思う。何かが劣化してきているのだ。

テロを減少させるには、格差のない社会の希望である。このままでは、どうにもならないという行き詰まり感がテロの原因になる。石川五右衛門ではないが、盗人の種は尽きないわけで、テロが完全になくなるという事はないだろうが、減少させるという事は可能である。まず、世界に対して、中立を宣言する。どこの側にも加担しないという立場を確保する。あらゆる国際紛争に対して武力を行使しない憲法を持っ国であることにふさわしい外交をする。国内的には民主主義を徹底する。国の政治が国民の意思を的確に反映したものになるように、選挙制度を改善する。また、重要な案件は、国民投票によって国民の判断を受けるような制度を作る。格差を極力排し、能力がないからと言って、差別されない社会を作る。瑞穂の国日本には、経済以上の価値が存在することを教育する。確かに明日の間には合わないが、方角を変えることで変わるものもある。

 - Peace Cafe