ネット賭博の蔓延
2025/06/28
ネット賭博が広がっている。心底怖いことだ。大きく見ればオンラインカジノの広がりは、日本の社会に健全な希望が失われたために起きている。普通に働いて、普通の暮らしを出来る。この当たり前の希望が失われ始めている。富裕層にならなければならない。著名人にならなければならない。そういう歪んだ妄想にとらわれている。
だから、いわゆる成功者であってもオンラインカジノにはまり込むのだ。成功者にはさらなるストレスが生じているに違いない。いつ脱落するか分からない不安。スポーツの一流選手が陥るのもそのためだ。極端な競争の中で生きるという苦しさがオンラインカジノにはまり込む原因になる。
このままでは日本を滅ぼしてしまう気がする。ネットカジノの一歩先に地獄があることが分かる。ネットをやっている人ならば、誰でもいつの間にか、賭博地獄に巻き込まれる可能性がある。無料のクレーンゲームをしていたつもりが、いつの間にかオンラインカジノにはまり込む。他人事だと思わないでいる。人間は賭博という物に引き込まれやすい動物なのだ。
何故日本で出来るネット賭博を政府は禁止できないのか。中国ではその程度のことは普通に行われている。ネット監視、遮断システムである。天安門事件と検索した人はすべて把握されるらしい。そのくらいのことは簡単なことではないか。そうか日本のITレベルでは難しいことになるのだろうか。
そもそも万博でごまかされた大阪カジノは違法行為である。それをあえて政府が導入しようとするのは、経済の活性化のためである。維新らしい選択である。こんな馬鹿なことをする政府だから、海外のオンラインカジノにもつけ込まれるのではないか。「ブロッキング」と呼ばれる規制法があるそうだ。一日も早く始めるべきだ。やらない理由は何もない。
海外カジノアクセス抑止ぐらい即座にやれ。これをやらない理由など少しも無い。対策例として決済手段の抑止は、法改正など無くてもすぐにでもやれる。意識啓発などはほとんど無意味。取り締まりの強化は人員が居ないのか甘すぎる。結局法律を作りアクセス抑止をする以外にない。
人間の中にある狩猟本能のような物が、呼び覚まされるのかもしれない。獲物を捕らえる快感のような麻薬作用がある。釣りでも、狩猟でも同じことだろう。日本には公営賭博という物があり、政府が税収の増加のために、宝くじ、競馬、競輪、競艇、オートレース手返し名を変え、政府が倫理を失い、悪事に手を染め、最低のことを続けている国である。
大阪では万博を建前にして、世界からカジノ観光客を集める方針である。政治家はそもそもとバクが好きな人たちなのだ。選挙というのは賭博のようなものだ。カジノを今更をあえてやるなど、日本をさらにダメにするだけのことだ。もう手遅れであるが、せめてこういうことは他に広がらないようにしなければならない。
間違いなく、日本が世界最悪の賭博大国なのだ。すでに、ギャンブル依存症の患者は増加の一途である。国がパチンコや競馬などのギャンブル依存症の疑いがある人の割合を調べたところ、全体では1.7%となり、男女別では男性が2.8%で、女性が0.5%と言うことだ。オンラインカジノが広がりこの数値もさらに上がっているはずだ。
ギャンブルをやった人を調べると、国民の半数の人が何らかの賭博をやっているとある。賭け事が歯止めなく行われていると言うことを現わしている。まともな人が、賭博などやるだろうか。信じがたい数字である。これに株式投資依存症を加えたならば、倍に跳ね上がるのではないだろうか。
株式投資は不労所得を目指したものだ。倫理観のあるまともな国であれば、国民に株式投資を推奨するようなまねはしない。国民の大半の人は経済的不安の中に生きているから、貯金を少しでも多くしようとする。その貯金を政府は流動化させようとして株式投資を推奨するわけだ。日本国には守るべき倫理がない。
ニーサとか言う物が税制上有利であるとして、若者にまで誘導を進めている。なんとも不健全な話だ。不労所得で生活できるようになれば、人間汗水垂らして働かなくなる。すでに日本人は肉体労働を避けるようになっている。肉体労働は外国人労働者がになう国に成り下がっている。不健全極まりない社会。
そんなことを今更嘆いたところで、どこの先進国も似たような状況である。日本は停滞中堅国にもかかわらず、不労所得のていたらくだから、未来が危うくなっていることは間違いない。その延長線に起きている社会崩壊の兆しが、ネット賭博の蔓延である。子供でも簡単に始められる。人間の成長がゆがめられることだろう。
苦労せず一攫千金を目指す賭博。賭博が社会を疲弊することは間違いが無い。そして、まともに働いて対価を得るという当たり前の労働が、馬鹿馬鹿しい物になる。賭博は始めると抜けられなくなる。私は子供の頃は、ベーゴマ、メンコに熱中した。夕方、電柱の下でいつまでも戦いを繰り広げて止められないでいた。そして将棋にはまった時代もある。
完全に病気の範囲だった思う。やらずと居られない。やっているときだけ充実感がある。幸いなことにと言うか、自制心があって金銭をかけることには、抑制が働いていた。親の教育が歯止めになっていた。勝負事にはまる自分に対して大きな不安があり、一切の賭け事は避け通してきた。だから不労所得すべてに嫌悪感がある。
勝ち負けにこだわる性格が、一流のアスリートを生む。と言うのでメダリストが賭博で逮捕されると言うことは良くあることだ。まして、不労所得が奨励されるような世の中に、ネット賭博が蔓延し始めているのだ。すぐそばまで地獄の蓋が開いて広がっている。
先日不労所得批判をしたら、何が悪いのだと却って批判された。株式投資は社会に必要なことだと怒られた。この国には健全な宗教がないと言うことを痛感する。江戸時代であれば、不労所得を考えること自体が悪事だったのだ。儒教的倫理という物が不労所得を抑えていた。
オンラインカジノと言うらしい。捕まって、これは合法だと思ったという言い訳を言う人が居る。そんな馬鹿な言い訳を、何故言うのかと思う。オンラインカジノが非合法であるくらい誰でも知っている。オンラインカジノの側は、操作をして必ず、ギャンブル依存症になるまで、誘導して持ち込み、すべてを失うところまでしゃぶり尽くす。
当たり前のことだ。ネットカジノの操作など運営側にはいくらでも出来る。様々なカジノがあるらしいが、知りたくもない。賭博にのめり込め差す手順など簡単なことだ。適度に儲けさせる。味を占めさせながら、はまり込ませる。依存症になった頃に、搾り取る。
何故こうしたくだらない物が蔓延するかである。それは社会に希望がないからだ。堅実に生きることに希望が見えないために、不労所得につい目が行く。オンラインゲームという物があるらしい。想像は出来るが、見たことはない。と言うか見ないようにしている。宣伝は時々入る。
別段ゲームだから良いだろうと、手を出したらはまって抜けられない性格であることは分かっている。そうだ、ビンゴゲームにハマって抜けられなくなったこともある。そういう抑制の出来ないだらしない性格だから、わずかでも手を出さない。手を出せば地獄まで行くことになる。
ゲームでも課金制度があり、勝ちたければ強力な武器を有料で買えば良いと言うことがあるらしい。こうして課金をして武器を手に入れて、ゲームで勝利する感覚を味わう。これが始まりになるだろう。退屈しのぎのはずが、命を削られるところまで、たいした距離はない。
ゲームだと思ってやっていたら、それがネット賭博の入り口だと言うこともあるらしい。考えてみれば、クレーンゲームなどやらない物にしてみれば、何が面白いかと思える。しかし、あんなくだらないことでも、テクニックがあり、上手下手がある。うまくなって行けば、痛快に違いない。
そうだなとユンボ操作をしながら思う。ユンボを扱っていれば操作法はよく似ている。何年も繰り返している内にいくらか上手になったが、はまるようなこともない。ユンボでマッチを擦れるというような人もテレビで見た。だからどうなのかと思うが、そういう人ならば、10倍速ぐらいで作業が出来るのだ。
クレーンゲームだってネット賭博の入り口なのだ。成功体験の刷り込みである。クレーンゲームをやるくらいなら、本物のクレーンの技師になれば良い。人間が生きると言うことの大切さは、現実に直面すると言うことだ。自分の努力が社会の中で意味を持つと言うことだ。
私が絵を描いていて苦しかったのはここだった。描いた絵が社会での意味を失った。絵画が社会性を失う時代だった。絵画は装飾品としては意味があるが、芸術としての意味は失ったという自覚。その中で社会性のない絵画を描く意味に苦しんだ。その先にあった物が「私絵画」である。
只管打坐など何の社会性もない。無意味であるからこそ、人間が生きる修行になる。