70歳の自給自足の挑戦
2025/06/27
花蓮が2ヶ月で池の中央の方まで広がり始めた。この勢いであれば、たちまちに池を覆い尽くすことだろう。まさかここまで旺盛な繁殖力があるとは思わなかった。熱帯の作物の勢力の強さには驚く。始めてみなければ分からないことばかりだ。これが自然とともに歩む、自給自足農園、のぼたん農園の姿だ。
少子化は先進国と言われる国では必ず起きている現象である。先進国という言葉もどうかと思うが。都市化した社会では、自然から暮らしが離れた社会では、少子化が進んで行く。それは人類と自然との関係から起きていることだと思われる。このまま少子化が進んで行けば、人類はいなくなるのだろう。つまり自然から離れれば、人間は消えると言うことになる。
少子化のもう一つの理由はコンピュター革命にある。都市化する人類とコンピュター革命とは関係していることだ。蒸気機関による産業革命が、人間の肉体の意味を変えた。そしてコンピュター革命は人間の頭脳の意味を変えようとしている。都市化とは世界標準の中に生きることとも言える。
世界中の人類が徐々に似てきた。同じ映画を見て、笑うように、泣くようになった。人類皆似たもの同士と言うことになってきた。江戸時代の人がオランダの肖像画を見て、何で顔にアザがあるのかと言ったそうだ。影を見てアザに見えたのだ。写真のように見える絵を、絵だとは思えなかったのだ。絵は作り物で現実を移す物ではなかった。
人類が都市化し、共通化したら少子化が進んできた。人類が狭い都市空間という、自然から隔離された箱の中に、閉じこもるようになってもう人類は終わるらしいと言う本能が働いている。自然から離れれば、自然物である人間が危機を感じるのは当然のことで、そのため人口減少なのだろう。
5万年前の人類は自然の中に生きていた、自然の一部であった。すべてが不都合で、予測不可能な世界に生きている。暖房はせいぜいたき火。もちろん冷房など無い。そういう世界に生きていれば、だいたいのことが予測不可能である。いつ何が起こるか分からない自然の中にかろうじて生きていた。少なくとも子供は可能な限り生まれなければならなかった。
人類は身体を解放し、ついに頭を解放しようとしている。それは自然という手に負えない、未知の物が無くなると言うことだ。何でも分かったような気にだけはなる。やる前から結果が分かっていたらつまらない。将棋がコンピュターで解明されるとは、先手が、あるいは後手が勝つという方法が見つかると言うことになり、将棋と言うゲームは記憶力だけの争いになり終わる。
社会全般がそうなる時代はもう少し先ではあるが、ほぼ先が見えてしまった世の中である。結論が出て何でも分かってしまえば、人類は少子化により消え去ると言うことになる。そのことは、冷房や暖房完備の四角い箱の中で暮らしたいという、都会派の人たちが消え去ると言うことだろう。
人間はコンピュター革命の末に、自然の中に戻ることを選択するのかもしれない。今までの人類は得た知識を積み重ねて社会を変えてきたが、得た物ではあるが、捨てた方が良いという選択が今度されるのかもしれない。そうしなければ人類が消滅する危機になれば、そういう選択もある。
石垣島に来て、70歳からの自給自足に挑戦している。はじめて5年が経過した。想定通りまだ普通に働けている。もうすぐ76歳になる。80歳までには自給自足農業技術の完成をするつもりだ。たぶん人類初の挑戦ではないだろうか。こんな体力勝負をこの年になってやるとは思わなかった。
が、毎日が面白くて仕方が無い。70歳からの5年は何とかなったが、75歳からの5年はどうだろうか。少し辛いかもしれないと言う不安はある。何とか80歳まで動くことが出来れば、自給農業の技術は確立できるはずだ。石垣島の自給農業はひこばえ農法とアカウキクサ農法である。
38歳から43歳の時に丹沢高松山山中で一度挑戦して、自給自足に成功した。このときは化石燃料や機械力は一切拒否した。産業革命以前の挑戦である。今回は、体力の衰えを勘案して機械力を導入しての自給自足の挑戦である。人類がコンピュター革命によって消えようとしている危機に、人類の再生の道を提示したいからである。
その一番の方法として、毎日野外に暮らしている。石垣島の厳しい自然環境の中で毎日絵を描いている。田んぼをしている。畑をしている。水牛を見ている。強い日差しを受ける。強い風にさらされる。暖房もない。冷房もない。自然の中にできるだけいることにしている。
そんなこと別段普通だろうとも思えるが、四角い箱の中で暮らしている人には見えない自然が見えてくる。昨日は田んぼの中に無数の小さな虫が現われたことに驚かされた。のぼたん農園4年目にして初めて起きたことだ。今までどうしても小さな虫が現われなかったのだ。
これは大展開である。時間が田んぼを変えてくれている。この発見をするのに、1時間ぐらい田んぼの脇に座り込んで、田んぼの中を眺めていて気づいた。それくらい小さな虫だった。するといろいろの物が田んぼの中に見えてきた。田んぼが代わり始めたことが分かる。良くなってきたと思いたい。腐植が増えたと言うことだけは確かだ。
自然という物を肌身で感じる。そこからだと思っている。人間が失った野生を感じたいと思っている。アルタミラの洞窟画を描いた画人のように絵を描きたいと思っている。完全管理の四角い箱の中の芸術などくそ食らえだと思っている。そんなことはコンピュター画家に任せておけば良い。
まずは食料の自給自足の実現である。自分が作ったものしか食べない覚悟である。厳密に言えば、そんなことはない。すべてに助けられて生きているのは分かっている。分かっているが、一歩前進をしたいと思う。コンピュター革命後の世界は、身体は使わなくて良い。頭も使わなくて良い。想像をつまらないつまらない世界になる。
産業革命後、アーミッシュの人たちは、機械力を拒否した暮らしをした。今回の革命への対抗策はコンピュターの通用しない暮らしをしなければならないと思う。一粒の種を蒔く。それが発芽する生命の不思議を自分の感性で受け止める暮らしである。何故種が発芽するのか、その科学は解明されたとしても、生命の出現の感動を受け止めるのは人間である。
自然という物に生かされている人間存在を知ること。この原点を再確認しない限り人類は消えて行くことになる。どこまでコンピュターが結論を出したところで、宗教や芸術は失われることのない領域である。「感じると言うこと。信じると言うこと。作り出すと言うこと。」
これらのものは、人類は失なえば人類でなくなる領域のものである。感じる、信じる、作り出す。こうした領域は自然の中でだけ育まれるものだ。70歳からの自給農業に挑戦しながら、新しい世界を見つけて、感じて、日々喜びの中で暮らしている。ありがたいことだと感謝している。
都会の人間は身体も、頭脳も、代替されている。都会のはこの中に閉じこもり、自然物ではなくなろうとしている。他の動物とは違い、あまりに頭脳を進歩させた結果なのだろう。その方が確かに経済合理性はある。冷房があれば、頭もボーとしないで済むだろう。しかし、石垣島の暑さの中で、ボーとした頭が、涼しい風を受ける気持ちよさはまた別物なのだ。
自然に接してみることからだ。自然の中で自給農業をやってみることだ。ここから、人間の再生が始まると思う。感じる力がよみがえってくる。信じる力が増してくる。そして何かを作り出す喜びを感じられるようになる。自然の力に従う自給農を体験することによって育つ力がある。
そう考えたので、衰えてきた70歳の私が、自給自足が可能かどうか挑戦することにした。この挑戦が実現できれば、どこの誰にも可能だと言うことになる。子供だからとか、女だからとか、年寄りだからとか、言い訳できなくなる。そこには自給農業の技術は無ければならない。
その自給農業の技術は山北と小田原で実戦した結果である。その通りやれば、つまり自給農業の基本原則の考え方に従えば、だいたいの人には可能な物になっている。と言っても、実は出来ない人の方が多い。先日も出来ると言っても笹村の本を読んでもやり方が書いてないというのだ。その通りではある。書いてあるのは笹村の一つの考え方だ。その先はそれぞれが自分の頭で考えなければ出来るものではない。
田んぼの水位の調整をしてください。と言っても出来ない人がいる。こうすれば水位が調整できると言うことは、実は教えたくない。教えることはコンピュターでも教えられる。そこを、どうすれば水位を上げられるかを考えることが第一段階だからだ。言葉で書けば簡単なことだが、自給技術は考え方次第なのだから、それぞれが身につける以外にない。手入れの思想とは枝を一本どう置くかで決まる。それは自然全体から来る感覚しか判断できない。
だから、本に書いてないという人が良くいる。私が言う技術は水位の調整をこの時期この高さにしてくださいと言うことになる。それをやれない人はやれるまで試行錯誤する他ない。その試行錯誤して獲得した物こそ意味がある。それが獲得できないような人には、何年やったところで、どのみち自給農業は出来ない。
たぶんもう頭が四角い箱の中で、固まってしまっている人には無理なことなのだろう。若い内でなければ手遅れだと思う。手遅れの人に手取り足取りしてあげる意味も無いと思っている。考える方角を伝える。これに尽きる。親切ではないようだが、これ以外に自給農業技術を伝える方法はない。