尾形光琳の作品
光琳は琳派の祖の一人である。日本の装飾絵画の典型と言える人である。熱海のMOA美術館にある、紅梅白梅図が国宝であり、代表作である。日本美術史の中でも最も優れた作品の一つと言える。最晩年のたぶん最後の作品と考えてもいいようだ。58歳で死んでいるのだが、40代になってから絵を描き始めたようで、わずか10数年の短い制作期間である。デザイン的な模写が多く、多くの作品を研究して絵を描いた人と言って良い。この模写というか、剽窃を全く意識しない人で、何としても受けそうな絵をひねり出した人と言える。雪舟の水墨画まで模写している。こうした創作姿勢はその後の琳派の絵画研究法に大きな影響を与え、絵を模写して学ぶことを画家になる道と考えるようになる。それは、日本絵画が芸術というより、装飾を最重視することになった要因でもある。襖絵や屏風絵であり、あくまで床の間芸術と言われるものである。芸術という観念とは別の時代の絵画である。
特に宗達の模写とも、アレンジともいえる風神雷神図模写作品は、紙を当てて写したと考えていいほどの作品である。俵屋宗達もデザイン的な作品ではあるが、その独創性が卓越していて、光琳とはその点では創作の質が違う。この違いが絵画表現の芸術性という問題にかかわってくると考えている。かつてないものを作り出す制作が芸術であるという考え方である。個性とか、自己表出というような、近代芸術につながる考え方である。明治時代までの宗達の評価は意外に低いものであり、光琳の評価と比べると格段に下だった。過去のデザインの延長でかまわないという考え方である。風神雷神図は多くの人が似たような絵を描いている。そのご、芸術という考え方が登場して、初めて宗達の独創性に日が当たるのである。明治期の美意識では、光琳のデザイン的装飾性が時代の好みに適合していた。それは、誰もが受け入れやすい没個性の美の世界ともいえる。こういうことが起こるのは、美意識の停滞が原因する。美意識が変わる時代と。保守的になる時代がある。現在は、日本人らしい美意識は喪失した時代に見える。
光琳が一筋縄ではいかないのは、紅梅白梅図である。梅を描きながら、その背景となるべき中央の川に、主題が絞られてしまっている。ここに果たしてそのように見ていいものかどうかという問題がある。この絵が描かれたときには、中央で黒々と渦を巻き流れる川は、輝いた銀色であったと思われる。しかし、時代を経て黒に変色をしたのである。その渦を描いた渦巻き模様は当初白かったものが、時間を経て赤みがかったとされている。そのあたりはあくまで推測であるが、私は今のような色になることを予測して描いたと考えている。たぶん銀についてはすぐに黒変するように硫黄を使ったのではないだろうか。光琳はそもそも呉服屋の息子である。染色の技術には精通していたはずだ。媒染等の技法や古色の魅力は十二分に承知していたはずだ。様々な説はあるのだろうが、年月を経て、今の完成に至ることを光琳は予測していたと考えている。それが光琳の結論だったと思う。
この黒い川の暗闇に迷宮がある。時代そのものの暗さである。光琳の中にある、人間の暗黒でもある。絵画というものが示した、人間の精神の奥深さがある。絵というものはこういうことができるのだ。こういうことだけやればいいと指示している。この深さは、ほかのどの芸術にも示しえない、具体性をもって、一目瞭然に示した。こう描かれてみて初めて見ることのできる世界。この黒い川は、その後の誰の装飾にも取り入れられるようなものではなかった。宗達の画格の高さが傑出していて、誰も模写することなど出来なかったように、光琳の黒い川は、実に生々しく流れている。