道徳教育と歴史教育は不要
中央教育審議会の会長山崎正和氏が、記者団に対して「道徳教育と歴史教育は不要」と語ったそうだ。どうもこの報道の雰囲気は山崎氏に対して、批判的な者が書いているような気がする。まとめ方が、いかにも不充分だ。真意も見えないし、意図的に批判を煽るような、ちょっと馬鹿にした書き方に見える。先日来の教育再生会議の道徳教育を教科に格上げ論議に対する批判として出て来たものだろう。教育再生会議は、当て馬だと思う。問題の本質から目をそらす為の見世物化してきた。この間、中教審答申による教育関連三法案が進められている。国の地方教育行政への関与や教員免許更新制、義務教育の目標規定など、教員の管理強化が主眼である。管理を強化すれば、ろくな結果が出ないことは、会社経営者ならすぐ分かることだ。教育再生会議と中教審との関係が全く見えない。又論議の本質も見えないまま、報道がおかしな形でだけ取り上げて、おもしろがっているに過ぎない。
まともに教育三法案が議論されるのでなく、その周辺で騒いでおもしろそうな、受けそうなところだけが記事にされる、こうした傾向は最近目立っている。報道のエンターテイメント化だ。そういう世代が記事を書くようになってきたと言う事もあるが、報道も経営が苦しく、読者受けのほうに目が行くのかもしれない。道徳教育が可能かどうか、宗教のない国では不可能だとおもう。だから、公明党は道徳教育に反対している。又押し付けられるような統一された倫理がないところが、日本の良くなったところだ。倫理は上から統制するような事が一番良くない。あくまで、個人の問題として扱われるべき問題だ。親に孝養を尽くしなさい、等と国から言われるなど馬鹿げている。そうしたやり方に問題が出てくるのは、北朝鮮のような独裁国家を見れば誰にでもわかる。道徳を教科にするなど、不可能な事は教師の現状を考えればすぐ分かる。道徳は行動によって、裏打ちされなければ、教育にならない。道徳が教師に求められるかといえば、求められるのは法律の範囲で、ボランティアを教師が率先してすることなど求められない。
山崎正和氏の考え方、人間の知が分断されてきている。1つは断片的な「情報」、それが脈絡をつけ体系化されたものが「知識」、そして預言者や村の長老が伝えていたような直感的なものが「知恵」。現代社会は情報と知恵だけで動く社会になり、知識の蓄積が弱くなっている。と分析している。知識を重視する山崎氏が何故、歴史教育を止めるべきだと発言したのか。現在の歴史教育が、知識の蓄積に成っていないからだ。稲作の歴史を例に挙げたようだ。弥生時代に稲作が行われるようになった。こうした事が、かつては教えられてきたが、現在は縄文後期には稲作は行われていた事がわかってきた。歴史は解釈であって、538年仏教伝来だけでなく、その背景の多様な解釈と思想を含んだ物が知識。断片を知識として覚える事には、教育としての意味がないという事なのだと思う。
歴史教育が現状のような物であるなら、やめた方がいいと発言しているのだ。教科書がいかに陳腐な物であるか。一度読めばよく解る。おもしろいはずの歴史が実につまらなく書かれている。一番は民俗学的歴史の蓄積が、歴史教科書では生かされていない。稲作のことで言えば、稲作が日本人の精神文化にどのような影響を与えてきたかが、着目すべきこと。しかも、その背景には多様な学説があり、結論が出ている訳ではないことも知らなければならない。日本人がどこから来て、どこに行くのかが歴史で、信長が天下を統一したなどと言う事は知らなくてもいいことだ。