ゲリラ炊飯「季刊地域」
制作途中のカマド。こんなカマドが3つ並べば良いと思っている。そうしたら見た目が良いと思う。そして夜に火を入れて、キャンプファイアーをしたい。上高地の小梨平で、楽しくキャンプファイアーをしていたことが忘れられない。安曇村のテント場に泊まっていた。
「季刊地域」63 にゲリラ炊飯の話が出ていた。これは面白い。すぐにでもやってみたいくらいワクワクだ。昔小田原の街中で、餅つきをやった。あれはゲリラ餅つきだった。小田原の街中のお祭りで餅つきをあちこちでやって歩いている内に、農の会は認知された。SNSの時代に変わったとしても、実体験ほど印象に残る物は無いだろう。
今回の季刊地域はお米と田んぼ特集である。63冊目にして、過去最高の一冊になっている。最近の現代農業を呼んでいて、農文教は大丈夫かなと言う気がしていたのだが、季刊地域が作れる人たちがいるなら、まだまだ力が残っていた。経済からばかりお米を見ていた。世間の米騒動に舞い上がったのか、百姓思想が欠落していた。
経済の問題から農業としてのお米に、どれだけアプローチしても、実際の農家の間隔から離れた、空論ばかりだとがっかりしていた。生産費が云々ばかりでは、何故お米を作ることが大切なのかの原点が見えてこない。自給農業では生産費など無い。楽しいからやる。生きがいだからやる。米作りが人生だからやる。
この百姓魂を見失ったならば、米作りの議論に加わる資格すら無い。出版社にそういうことを期待しても仕方が無いとは思うが、百姓魂の入った出版社としての思想が薄れていた。農文教の本は科学的で無いという、農業の研究者がいる。学術書の出版ではないのだから、それで良いのだ。百姓魂の本なのだ。命がある本作をして貰いたい。
政府は新自由主義で、お米は輸入することが一番経済として有利であると考えて居る。いつまでも農業をしている人間を何とか止めさせて、人手不足の企業の労働者として雇用したいというのが本音ではないのか。農村から労働力を剥がすことが、戦後の高度成長の流れだった。
当然稲作農家の労働力は、専業ではなく第二種兼業である。出稼ぎ時代が終わり、企業が安い労働力のある、農村地域に出向くようになった。こうして、稲作の生産性など関係のない社会になった。あくまで企業中心の発想の中で、経済としては、稲作農業が失われて行く過程の物として、見られていた。
米作りはせいぜい経済の潤滑油程度の位置づけである。そこに登場した、ゲリラ炊飯にはエネルギーがある。勝手にどこにでも行って、ご飯を炊いて食べさせてしまう。この潔さのインパクトはすごい。ゲリラと名付けられた理由は、ごはん革命を起こそうということだろう。
平和のゲリラの気概が示されている。カマド炊きのごはんがいつか時限爆弾になる。ビックマックにコーヒーのファーストフード派に、炊きたてご飯を食わせてやれ。このインパクトは百姓ゲリラがまだ生き残っているという証拠。むしろ旗がはためいているのが目に浮かぶようだ。まだ百姓が生きている。
何でも電子レンジでチンである。すでに危ういところまで時代は来ている。カマド炊きごはんを食べたこともない人が、多数派なのだろう。もちろん薪でごはんを炊くというのを見ることが初めてという人ばかりだろう。
企業経済と同じ土俵で戦ったところで無駄だ。企業エリートが一日パソコンの前で仕事をして、仕事帰りにスポーツジムで汗を流して、健康を保つ姿と、百姓が一日野良仕事で身体を使い。夕焼け風呂に入って疲れを長し落とす喜び。どっちが生産性が高いかを比べても、比べる土俵が違いすぎる。
コンピュター革命家に世界はある。今世界に起きている政治の右傾化も、トランプ完成に見られるような独善的な競争経済の背景にあるものは、自己本位の利己主義である。コンピュター革命の乗り越え方がまだ見えていないから起きていることだ。人間はそれほど競争しなくとも、生きて行ける世界が来るはずだ。
生産性がどんどん改善されて行く。10時間働かなければならなかった仕事が、5時間で済むようになったのは、蒸気機関による産業革命の結果である。それが、ボタンさえ押せば生産は進んで行くようなことに、コンピュター革命後の世界はなって行くはずなのだ。
競争して負けたところで、生きては行ける世界が可能になるはずだ。今はまだ革命の最中で、世界の革命後の未来が見えにくいだけだ。人間が生きるということに費やさなければならない時間は余裕が生まれる。田んぼの作業が、スポーツジムになるはずだ。
トレーニングマシンに乗って汗を流すよりも、土を耕し、種を蒔く汗が勝ることは目に見えている。それいじょうに、精神衛生上もジムのトレーニングでは解消できないストレスが、水牛と一緒に働けば、ストレス解消どころか、水牛の心の豊かさに触れることが出来て、学びの場になり心の成長につながる。
人間が生きるという問題を、生産性で比べてはならないのだと思う。個々の産業ごとに次の時代の経済がある。もちろん日本のお米の生産性ははるかに高くなければならないのは確かだ。手抜き農業で全体の生産性が下がったのだ。どのような農業であれ最善を尽くさない農業が問題なのだ。
お金だけのことを考えたならば、年に2度だけ田んぼに行く農業になるのだ。長野の米農家の息子さんが、年に2度以上田んぼに行く奴は馬鹿だ。とそのように豪語していたのだ。田んぼが嫌いなのに、お金になるから田んぼをやっている。これではまともな仕事になるはずもない。
片手間農業、手抜き農業をよしとする日本の農業の経済環境に問題がある。そもそもそれでは、ご先祖様からお預かりした日本の農地に対して申し訳がたないだろう。どれほどのこの土地に生きた思いがあるのか。田畑にこもっている汗と涙を忘れては成らないはずだ。
日本列島に暮らしてきて、田んぼを作ることが3000年くらい前にに広がっていった。水田農業という素晴らしい物を教えていただいた日本人は、田んぼに生きてきたのだ。人間が命をかけて作り上げた日本の農地だ。このありがたさを忘れて良いはずがない。
だからゲリラ炊飯だ。今こそゲリラ炊飯の狼煙を上げるときだ。ごはん革命である。田んぼを楽しむ時代が来る。田んぼ遊びで人間が生まれる。人間は身体を動かして出来上がる。身体で覚えることが大切なことになる。身体を動かさなければ食べ物は出来ないと言うことを知る必要がある。
田んぼ好き人間を増やそうではないか。学校では田んぼ教育を取り入れる。学校で一番楽しかったのは、田んぼ作りだったと言う、子供達を増やそうではないか。全国に学校田連盟を作る必要があるのではないだろうか。年に一度全国大会をやり、技術交流をしてみたい。
昨年石垣市役所で、稲作サミットが開催された。そこに書かれていたものが以下の物になる。
稲作は、海からの水の循環とその水を貯え育む山・森があってこそ成り立ちます。
八重山では、五風十雨の旗印の元、五穀豊穣・弥勒世を願う豊年祭や節祭、ハーリー (海神祭)等、陸と海の自然の循環に彩られた祭りが行われています。
子ども達の稲作体験の絵日記や生き物観察記、「八重山の田んぼの虫」標本等を展示し、学校間の交流を図り、子ども達が相互に学び合うことを目的とします。学校・行政、そして地域社会が「結の心」で連携しあい、八重山の豊かな自然―海・ 山・里と伝統文化そして稲作を未来へ繋ぐ試みです。
のぼたん農園では3年間崎枝小学校で田んぼを指導している。しかし、まだこのサミットには入れてもらえていない。子供達にとって良い交流の機会なのに、残念なことである。よりよい田んぼ教育になるように、努力して行きたいと思っている。