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笹村 出-自給農業の記録-

ノーベル賞に日本人が2人も

   

 

ノーベル賞を日本人が受賞した。あまりに素晴らしいことで喜びが溢れてくる。学問の分野で日本人が世界に貢献している。これほどの喜びは無い。まだまだ日本人は大丈夫だという気持ちになる。学問の世界は十分に世界水準である。学者の皆さんが素晴らしい努力をされていると言うことが、本当にすばらしい。

日本の学問の置かれた環境は、あまり上等とは言えない。政治が膨大な財政赤字を生み出し、十分に学問に投資することが出来なくなっている。そのために産学協同が言われて、基礎学問に対する財政的支出は減少されているらしい。研究に対する財政支出の付け方が、目先のことにとらわれて、将来を見据えていないと言われる。

日本人のノーベル賞受賞者は27+4+2名 1団体とかかれていた。物理学賞が12人、化学賞が11人、生理学・医学賞が6人、文学賞が3人、平和賞が1人と一団体。アメリカが圧倒的多数で、英国、ドイツ、フランスに次いで、日本は第5位の授賞数である。日本は学問の世界での先進国の一つであるといえる。

戦後の疲弊して経済的困窮の中でも、日本の社会が、基礎的な学問が重要だと考えて、学問をされる方が努力を重ねられた結果である。日本人の健全な思いが、反映している。戦後の貧しい経済の中よく努力していただいたと思う。苦学という言葉があるが、家族の皆さんも合わせてご苦労されたことだと思う。

学問を尊いものだとし、基礎学問を積み重ねることが日本の発展につながると考えた、先人の賢明な判断が正しかった結果である。これは日本文化の伝統につながることだと思う。江戸時代の日本は鎖国はしていたが、識字率は世界トップクラスであったのだ。

寺子屋が日本全国に存在し、読み、書き、そろばんがたい切なことだとされていて、農民も寺子屋に通う人が多数存在した。私の生まれた向昌院は山梨県の山間部にある寺であるが、江戸時代には寺子屋が開設されていたという。そのときの机が子供の頃には本堂の高いところに収納されていた。机には筆でそのことが書かれていた。

私の父は民俗学の学者になりたかった人である。生涯柳田国男先生の弟子を自称していた。私たち兄弟にも学問をして欲しいといつも願っていた。兄は牛の研究者になろうと努力をした。私はそうして努力さえ出来ずに、挫折をして絵を描くようになった。申し訳ない気がしている。

日本は豊かな社会になったにもかかわらず、目先の経済に追われて基礎学問が軽視されている。ノーベル賞受賞を聞くたびに、目先の学問だけでは危うい。基礎的学問の裾野を広げることだけが、ノーベル賞を受賞するような、先進的な発想が生まれるのだと思う。

学問の結果を経済的にすぐに役立つことだと考えてはならない。といつもこう思うのだ。受賞された学者の皆さんが、そのようなことを口にされる。国立大学に進学することは、働いて通うことが可能な社会で無ければおかしいと思っている。1970年までは、まだそれが可能だった。

日本の科学研究力の低下が指摘される。特に基礎的学問が重きを置かれなくなっていると言われている。北川氏は「日本人のノーベル賞の受賞候補者はまだ多くいる」という認識を示した。ただ一方では研究力の向上に向けて若手が研究に取り組む時間の確保や環境整備などに注力する必要性も訴えられた。

学問の自由が危ういと言うことで、日本学術会議の政府の任命拒否事件が問題にされる。政府に都合の悪い研究をしている学者を、学術会議の会員にはしないと言うことらしい。しかし、学術会議の任命が公正に行われてきたのかと言えば、かなり怪しい物なのだ。

政府に対して推薦人を出すわけだが、その名簿自体が、後世に民主的に選ばれては居ないと言われている。農業分野で言えば、農薬会社と産学協同で研究している学者は、優先的に学術会議に推薦されていると聞いた。農業であっても基礎研究をしているような人には、陽は当たらないと言われている。

日本は基礎研究が自由に出来た国だったのだと思う。中国やロシアに比べて政治から独立して存在した。学問は経済からも独立していなければならない。学問は人間がより深く、正しく暮らせる道しるべになる物であって欲しい。日本の学問はそうした理想を目指していたから、ノーベル賞を受賞できるのだろう。

これからが大丈夫かと心配になる。日本には純粋に芸術を追求する領域が失われつつある。商業主義が芸術を衰退させている。学問も経済に従うようになれば、他のアジア諸国と同列になる。日本人よりどの国も勉強はするらしい。しかし、その勉強がよりよい生活水準を求める物になっている。

良い大学に入るための勉強。良い会社に就職するための勉強。東大の大学院には沢山の中国人がいると言う。中国人は優秀な人が多いので、日本人との競争に勝るのだろう。しかし、その学問の方角が、収入に直結する物だけであれば、ノーベル賞を受賞できるような研究には成らない。

そして、日本人にも拝金主義が蔓延してきている。お金にならないことは意味が無いと考える人が多数派になっている。こうした日本人の変質が、日本という国の尊厳を損ない始めている気がする。清貧の学者がノーベル賞を受賞するようであって欲しい。

何時までもノーベル賞受賞者が日本から生まれるような国であって欲しい。こう考えてくると、日本がノーベル経済学賞を受賞できない理由が見えてくる気がする。世界は様々な危機に直面している。貧富の格差や不平等の拡大、失業者の増大、資源の奪い合い、そして戦争。

その根本には経済の問題がある。資本主義経済の限界である。次の時代を展望できる経済理論を日本人が研究できないと言うことでは無いだろうか。日本の経済学は、世界が直面している根源的な経済現象の研究をおろそかにしているのでは無いだろうか。国家資本主義や新自由主義経済の問題点など、理論的な研究があるのだろうか。

自由な経済競争下で経済成長を追求することから生じる格差や不平等の拡大の原因はドコにあるのか。大量の貧困者や失業者の発生、環境の破壊など、一口で言えば資本主義の行き詰まりから来る、地球規模での人間社会の持続性の崩壊に対し、独創的な分析や解決法を理論的に提示できない。

たぶん日本の社会の戦後の経済的成功体験が、今置かれている世界経済の限界に対する認識が遅れてしまった理由では無いだろうか。このままの資本主義経済を是とし、修正主義的な対応で、充分と考える経済学者が多かったのでは無いだろうか。今求められる経済学は、資本主義の限界を超える経済理論であろう。

それがどう言う経済理論であるのかは、感覚的にも分からないことであるが、コンピュター革命後の世界経済を、学問的に探求することは、緊急的な課題であるような気がする。これこそ目先の経済に振り回されること無く、人間の未来を見据えた研究をして貰いたい物だと思う。

日本人の目線で、例えば江戸時代の鎖国下の循環型社会の目線で、未来の世界経済を考えることが出来ない物だろうか。などと素人考えで夢想する。江戸時代には3千万の人口を擁し、江戸という世界最大の都市を維持した社会である。世界的にも稀な持続可能な社会を作り上げた。この独自の経済の形は次の社会の標になるのでは無いか。

文化的にも高い水準を持った日本の伝統社会の知恵や学問の中から、日本人こそが、何とか学問の力で、次の世界を切り開いて貰わなくては成らないことだけは分かる。ノーベル経済学賞を日本人が受賞することはあるのだろうか。その日を期待して待っている。

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