地場・旬・自給

笹村 出-自給農業の記録-

令和の階級社会

      2025/12/08

 

日本の社会は階層化されたと言われて久しい。最近は階級化されたと言えるような状況下と思う。富裕層と貧困層に社会が分断されている。現状では明確に階級社会になったと考えた方が良いのかもしれない。貧困率が、16%を越えている。アメリカでさえ10%位だ。1人親家庭では半分が貧困である。

この現実が無視されている。そして賃上げが進んだと主張する。しかし、問題となっている低所得者層には、賃上げの恩恵は及ばない。最低賃金が上げられるのは良いのだが、それだけでは貧困解消するにはほど遠いものがある。豊かな国の貧困を直視すべきだ。

階級社会とは親の資産によって、子供の階層が決まる社会である。社会が階級化したことが日本の停滞の一番の原因である。戦後社会の高度成長は、誰でも努力すれば豊かになれるということが、あらゆる職種の人にまで及んだ平等社会が一時的に実現したことが大きい。

社会が希望に満ちていた。働きに出ようと思えば、金の卵と言われて大切にされた。働ける職場があり、職場での給与も倍増して行くような勢いで増えていった。都会に出て働いて、一家を成す。と言うことが現実になった。階級差は極めて薄れた。

本来人間は出自にかかわらず、どのような生き方でも本人の努力と能力次第で可能な社会が望ましい。そうした社会を目指して頑張ってきたはずだ。つまり共同富裕の社会である。しかし、どこの国も経済成長に伴い、格差が広がり、階級というか、貧富の差が可能性まで縛るようになった。

教育の問題がある。大学に行くためには自分の力だけでは不可能と言える社会になってしまった。戦後社会は働きながら大学に行く人が、苦学生と呼ばれて尊敬されていた。私も大学に行くのだから、自分の力で行きなさいと父から言われた。もう尊敬はされないくらい当たり前のことで、アルバイト学生と呼ばれた。

世界は江戸時代のような階級社会から、徐々に平等な社会に改善されて行くのだろうと、希望的に展望されていた。それが1970年代までの日本であった。何故こうなったのか。70年の学生闘争が分かれ目だった。あそこで改革の道が閉ざされ「受益者負担」の思想が広がった。

能力の制限はあるが、努力次第でどうとでも生きることが出来そうだと、私が大学生の頃は思えた。多くの若者がそう考えて生きていたと思う。今考えれば、歴史的にもまれな幸運な時代に巡り会うことが出来て、幸せなことだった。だから自由に生きる道を考えることが出来た。

そうした幸運な時代のおかげで、楽観的に自分の生き方を選択できたのだろう。大学には自分の力で行くつもりだった。そうでなければ大学に行く木もなかった。自分の力で何とでも成ると思えた時代。回りには自由に、でたらめな人生を生きている人が沢山居た。

好きないことをして生きて行こうと考えて居た。あの頃は命がけで禅宗の坊さんになろうと思っていたのだから、今思えば不思議なことだ。坊さんになってみたら、好きなことが何も出来ないというので、諦めざるえなかった。好きなことをやりたい圧力が一番強かった。

階級社会では一部の富裕層だけが好きなことが出来る社会である。しかも富裕層の子供達がどれほど頼りになるかと言えば、何もしないで生きるのが好きというような、頼りにならないものが大半である。つまり富裕層は、不老所得層というのが日本だ。

それが日本の停滞であり、志の失われた社会に日本は成ってしまった。その理由は倫理が失われたためだと考えて居る。日本人ファーストなどと平気で口に出来る人たちが現われたのだ。何という情けないことかと思う。自分の力で何とかするという気概がない。

誰かが悪いから、自分の状況が悪いと考えて居る。確かに、下層階級に陥れば、もう這い上がることが出来ない社会なのだから、どうにも出来ない不満がたまっている社会になっている。

コンピュター革命の影響で社会が変わろうとしている。小さな国であろうとも、資源のない国であろうとも、自由と平等の元で、頑張って働けば、何とかなる世界だった。所がコンピュターが登場して、世界での経済競争が変わり始めている。

肉体的な努力で得る賃金と、頭脳で得る賃金との差が大きくなった。頭を使い経済を動かす人が、富裕層になった。勤勉に肉体労働をしたとしても、下層階級から抜け出ることはない。肉体労働する価値が低下をした。そして不労所得を政府が奨励すような国になった。

日本社会の倫理が崩壊したのだ。崩壊したにもかかわらず、それを崩壊とは考えない人が多数派の日本社会である。こんな状況では社会は当然停滞する。肉体労働を嫌い、外国人に押しつけるような社会では、健全な社会ではない。倫理の失われた不健全な社会が停滞し、階級化するのは当然のことだ。

日本が立ち直るためには、倫理を取り戻すことだと思う。倫理を取り戻すためには、自由、平等、正義が通用する社会を目指すことだ。不労所得を目指すような生き方は、倫理的に許されないという社会にならなければ、まともに勤労する人間が生まれてこない。

日本の社会が拝金主義に陥っている。拝金主義の克服が出来なければ、健全な社会はあり得ない。働くことの喜びを体験しなければならない。義務教育に作務教育を取り入れることだ。ただ掃除することの尊さを体験的に身につけることが必要である。

一方で、国自体が拝金主義を捨てることだ。競争主義を捨てることだ。能力主義を捨てることだ。それは出来ないだろう。出来ない以上社会はさらに悪くなるに違いない。高市政権とその支持層の登場を見ると、諦めざるえない気になる。諦めたら行けないとは思うが、遠回りするほかない。

国全体や、社会全体がダメならば、自分たちの方角だけは、そうでなく、自分の方角だけは正しい方角を向いて、生きて行くことしかない。作務である。働いて、働いて、働いて、正しく働いて、自由、平等、正義、を目指すのぼたん農園を進めようと思う。

自給農園である。一日一時間働けば食糧自給が出来る農園である。農業遊びをする農園ではない。ここで採れたもの以外は食べないという覚悟の農園である。確かにそれはむずかしいことだと思う。難しいのはその覚悟が出来るかどうかが難しいわけだ。

他人のことは仕方がない。私自身のことである。自分がその理想に向かいどこまで努力が出来るかだけだ。「のぼたん農園」はいよいよ5年目に入る。折り返し地点が見えてきた。大まかな形は出来た。後は維持管理にはいるのだろう。そして農業技術の向上である。

良い仲間がいて、助けてくれている。ダメでも良いじゃん。どうにかなるさ。そう思って日々精進である。いよいよ、5年目の稲作りが始まる。品種は「達はるか」「にこまる」「あきまさり」12月7日が種まきである。浸種は順調に進んでいる。6日に水から上げて、7日に播種である。来年1月11日が田植予定日である。

毎年種籾を変えているが、今年は晩稲3品種を試してみる。晩稲品種ならば、15枚はが出る可能性があるからだ。晩稲品種を1月7日に苗代に蒔いて、田植予定日は5週間育苗で5,5葉期を目指す。1月11日に田植になる。6月が稲刈り予定。そしてひこばえ栽培に進む。9月が2回目の収穫。そして11月が3回目の収穫。少しずれても、12月7日までには3回目の収穫が終わる予定。

今年は田んぼが増えて、一反8セになる。6番田んぼには余り稲も植えるかもしれないが、まずはタイモ、タロイモ、マコモタケ。そして余り稲。下の田んぼ6セには「にこまる」を植えようと思う。「たちはるか」が余ればそれも植えてみる。株間は30㎝角にするつもりだ。3番田んぼは3種類とも植えるそうだ。

のぼたん農園のことになってしまった。

 

Related Images:

おすすめ記事

 - Peace Cafe, 暮らし