自由の価値と民主主義
2025/12/18

人間にとって一番大切なことは、安寧に豊かな気持ちで生きる日々ではないか。今日一日の幸せを生きる。その幸せとは、自由にやりたいことをやれることだと思っている。石垣に来てからの7年間、毎日が好きなことをやるだけの暮らしである。これほどの幸運はないと思う。感謝、感謝。
のぼたん農園で絵を描き、自給農業の確立を目指している。絵の方も未だ道半ば、のぼたん農園の冒険も、やっと舞台が整ってきたところで、まだまだこれからというところである。生きていることには、これで到達できたというようなことはないきがしている。
まだやらなければならないこと、やりたいことのある幸せ。石垣島に来たときには、まさか田んぼを始めることになるとは考えて居なかった。むしろ、絶対にもう農業はやらない。絵に専念すると決めていた。それが、小田原にいた頃以上に田んぼの毎日である。小田原では、一年一回しか出来なかった田んぼが、3回も出来るのだ。
結局の所、絵を描くためには農作業をやる必要があった。のぼたん農園をやることが、絵を支えているのだと思う。農作業をやっていなければ、絵は50歳で終わっていたのだと思う。50歳の絵より、今の絵の方がいくらかはマシだと思う。
76歳のこれからやるべき課題がある。と言うことが幸せなことである。やり遂げられるかどうかは危ういところではあるが、私がやらなければ誰が出来るのだという気持ちでいる。のぼたん農園に挑んでいる。予定ではあと6年間からだが動けばかならず、やり遂げる。
それは、小田原で農の会を始めたときと同じことだった。1人の自給農業ではダメだという天の声があった。みんなでやることを目指さなければ。「1人で出来たら、みんなでね。」絵を描くこともそうだが、1人では社会から孤立しておかしなものになる。みんなでやるから、正しく前に進める。
石垣島では天水田をやっている。湧水で作る田んぼである。とても難しい。難しいから面白い。そんな気持ちで新しく石垣島での自然養鶏を始めようと考えて居る。これはよほどの覚悟だった。鳥インフルエンザ騒動が収まったし、のぼたん農園の回りでは鶏を飼う家庭が、5軒もあるからだ。
こんな楽しい日々が過ごせることは、日本の戦後の社会が自由だったからだ。1949年生まれの幸運な世代である。端から見れば、いつでも遊んでばかりいる人間だった。趣味に生きているように見えたことだろう。絵を描いて、鶏を飼って、田んぼをやる。どれも職業とは言えるようなものではなかった。
絵は職業にしたかったのだが、出来なかった。出来なかったが今はそれで良かったと思えるようになった。絵は子供の頃からおじさんの影響もあり、良く描いていた。鶏は6歳から好きで飼った。小学校6年生の時には100羽の鶏を飼っていた。
そのすき鶏を飼うことを76歳の今またやることが出来るのは、感謝しなければならない。これほど運の良い人間はいないかもしれない。すべてが両親のおかげだ。自分のことしか出来ない私を、自由に生きて良いと、好きなことをして生きろと励まし続けてくれた。
いつも早く歳をとり、好きなことを隠居仕事にしたかった。幸いこの年になれば、働かないで何をしているのか、など言われないのは有りがたい。伊能忠敬の生き方に教えられた生き方である。「ちゃんとした仕事に就かないで、何を毎日遊び暮らしているのだ。」そういう社会の目が、若い頃はいくらか気になっていた。
幸い両親が好きなことをやれば良い。と常々言ってくれて、遊びのようにしか見えない毎日を、許してくれていた。こんな有り難い親がいるだろうか。自由であることを大切に出来る家族だった。毎日が家族議論のような家だったので、その自由に生きる意味は日々問われ続けていたのかもしれない。
1人の自由の先にあるものは、みんなの自由のためがある。自由な社会のためである。これを忘れた1人の自由では、人間らしい自由ではない。1人が自由になれるためには、自由な社会がなければならない。大変難しいことだが、それぞれの自由の確立と、社会としての自由。
高市氏は自由な社会を閉じようとしているように見える。国家主義者であり、働いて働いての後ろにあるものは、国のために働くがスローガンである。そのことは高市氏の自由であろう。しかし、それは私の自由を奪うことになる。
何故石垣島にミサイル基地を作ろうというのか。国のために、小さな島を防人のすれば良いという発想はおかしくないか。中国と同じではないか。ロシアと同じではないか。北朝鮮と同じではないか。日本の民主主義が危ういものになり始めている。
世界が自由への方向を変えようとしている。台湾の独立を支持するのは、台湾の自由を中国が奪うに違いないからだ。自由を奪われた香港の哀れさを思うと、自由を重んずる国でなければ成らないと思う。中国は本質としては好きな国なのだが、習近平が自由への理解が足りない点は、世界の問題だと思う。
台湾にも中国にも何回も行ったことがある。自由というものがない中国、自由のある台湾。この空気間の違いは、かなり大きなものだ。町を1人で歩いていても、中国では緊張をしてしまう。中国は行きたくとも行けないくらい残念な国だ。
フィリピンとベトナムの間にある領有権でもめている南沙諸島は、領有権を中国、台湾、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイの6者(地域)が主張してきた。その島中国はを勝手に埋め立てて軍事基地を作った。中国はこんな侵略的な国ではなかったはずだ。
こんなことをやる国が、共同富裕と言っても政治的な発言にしか思えない。行動富裕の背景にある思想は、人類の共同富裕でなければならない。自分の国だけの共同富裕など思想としては、国家主義である。誰でもが豊かになれる世界を中国も目指すべきなのだ。
自国だけが豊かになれば良いという、トランプ主義が世界の民主主義を壊している。一国主義は必ず破綻する。世界で一番の国と、2番の国が、自分だけが豊かになれば良いと言い出したわけだ。確かに資本主義は、競争である。競争は人を食い物にする考え方だ。
1人の自由を大切にする。それが民主主義の基本の目標である。自由を守るために、民主主義的な政治を守らなければならない。民主主義を掲げて、国歌を1人よりも上位に置く思想はない。国のためには個人の自由が制限されて良いとは言えない。
東京を守るために、石垣島を犠牲にして良いとは言えない。日本国のどこに暮らしているものも、守られるべき人権を等しく持っている。現在の兵器を考えれば、東京にミサイル基地があったとしても、石垣島でも、発射して到達する時間は同じことである。
東京に置くよりも、位置を特定されない潜水艦にミサイルを搭載するのが良い。住民のいないところに基地を置くべきだ。敵の攻撃があるとすれば、まず軍事基地がミサイル攻撃を受ける。当たり前のことだろう。もし石垣島にミサイル基地を置くというのであれば、各市町村に一つのミサイル基地を作るべきだ。
それが平等というものだろう。東京に象徴されると都会だけが、守られる思想は歪んでいる。あの原発事故で散々言われたことではないか。東京の電力のために、何故福島が犠牲にならなければならないのか。原発事故で失われたふるさとがある。
多数決で東京が多いから、東京の論理で進んで行く。これは間違った民主主義だ。1人の幸せを犠牲にして、多数の幸せを守ることが、選択される民主主義は、間違った多数決である。1人が、他の1人のことを考えられる人間にならなければ、民主主義は守られない。