資本主義の次の時代が来ている。

水田に進出して、蔓性で広がる牧草。
資本主義が限界に来ているという事は共通認識になりつつある。その理由は資本の競争が無限に続いてゆくには、地球が有限な世界だという事だろう。地球という枠が、人類の膨張ですでに危うくなり始めた。それでも人口増加を資本主義は求める。
気候変動が身近に迫ってきたことが、ひしひしと肌感覚で感じ始めている。今年の夏の暑さは少しおかしいぞ、と体感的に感じている。それでも何も有効な対策ができない現実の社会を、資本主義が限界に来ているためではないかと、思わざる得ない証拠。
気候変動だけではない。プーチンが侵略戦争を開始した。国家資本主義と自由主義的資本主義との対立。このまま行けば人間が崩壊に向かうのであれば、資本主義の次の経済の形を見つけざる得ないのではないか。
例えば農地はその地域に暮らす者の共有的なものであるべきだ。資本が農地を独占するようなことは間違えではないか。水だって、教育だって、医療だって、人間に必要なものが資本に占有される時代はおかしい。
土地を公共のものとして考えることはできないのだろうか。森林は国有地であるほうが管理が可能になる。森林が利潤を生むものでなくなれば、私有地である森林は放棄されることになる。国有化して管理しなければ、国としての不利益が起こる。
水というものも当然そうである。ダムがありダム湖があり、川があり、海がある。このすべてが公有地であることではじめて管理が可能になる。ある資本がこういうものを利潤を生みだす資産と考えることは、社会として健全とは言えないだろう。
そしてあらゆるものが公共的なものであるというのが共産主義という事になるのだろう。これも成功しない考え方だとおもっている。公共のものである資産と私有化すべき資産がある。森林や、農地や水は公共化すべき資産である。さらに生活のための電力やエネルギーは公共かすべきものだろう。
こうした、公共の資産は個人が有効に使用できるものである。農地はあくまで個人が所有するのではなく、利用する範囲のものである。農地を適正に使用することで、利用権が生じて継続される。適正でない利用をしている場合は使用が終了となる。
農地の事例で見るように公共のものであるべきものを、個人が有効に利用することが可能という範囲を広げてゆく。それは教育などにも当てはまる。教育は公教育と言われるものがすでに行われているが、能力主義においては、能力をより延ばすことが可能だという、例えば中国ですら、学習塾が高額の利潤を生むものとして経営されている。
それは学校教育全般にも及び、教育その門が利益の出る教育という事になっている。大学であれば、より良い就職が出来るものが良いものとされる。能力主義を助長するものとして教育が扱われることになる。本来人間の幸せのための学問が利潤を生む能力を育てるものに成り下がっている。
資本主義の競争の原理が、学問の本質までもゆがめてきていると言える。人類の未来のためには必要な基礎研究も目先の利益に追い回され、充分な配分がされない事になる。こうして学問自体が徐々にゆがめられているのが資本主義の現状である。
社会インフラと呼ばれる水道や電気なども、本来企業が利潤の為に運営するという事は不自然である。公共の利益として考えられるべきものであろう。交響にすると効率が悪いという事に問題がある。個人や市民グループが有効に運用する。利益の為ではなく、社会で喜ばれるために働くという姿なのだろうか。
競争にあくせくしてまで働く必要はない。自分の好きなことをして、楽しんで暮らせる。こういう時代が来ているのではないだろうか。科学技術が発達して人々を豊かにする技術が充分になったと言える。競争に勝たないでも、それなりに楽しく生きることが出来る時代が来ている。
これからの社会は、生活の回りのを物を豊かにして、贅沢に暮らすためというよりも、自分自身を成長させるために働くことが目標になる。あるいは、自己を成長させながら、よりよい社会をつくるために働くという事が目標になるような気がする。
どれほどのものを所有したところで、生まれてきて死んでゆくのは変わらない。そして資本主義は人間の生活に必要なものは十分に生み出してくれるようになった。分配さえ公平に行われるのであれば、それなりに社会貢献をして生きるものが、普通に生きてゆくだけのものは分配可能になっている。
国家資本主義と企業資本主義の対立がある。両者の対立が深まる中、個人というものが埋没し始めている。独裁的な国家権力者とその周辺におもねるもの。そして、独占的企業の資本家とその周辺のものの対立に、個人が巻き込まれてゆく。
プーチンの侵略戦争が、冬の暖房費を直撃する。世界は急速に悪化し始めていると考えなければならない。先ずは公共を考える前に、避難地を探さなければならない。全体としての資本主義の次の体制を模索することはあまりにも難しい。さらに終末期に至らなければ何も変わらないのだろう。
これほどの気候変動が始まっていても、対策がとれないのが世界の実情である。その現状を考えれば、一時避難が当面の現実的な対応策という事になるのではないか。そうしなければ、これからの角期の軋轢に巻き込まれて、神経を病んでしまう。
一時避難場所はそれぞれが考える他ないのだろうが、まず仲間を探すことが出発点になる。一人では不可能なことも2人ならできることもある。2人より3人ならばということになる。仲間を見つけるためには理念を持たなければならない。旗印がなければ仲間は見つからない。
旗印のもとに集まると言っても、仲間になることも、離れてゆくことも自由である。緩やかな集まりを持てれば、次の時代まで持ちこたえることが出来るだろう。もし次の時代がだいぶ先だとしても、何とか今のひどい時代を生き抜くことも出来るだろう。
仲間はどこにでもいる。みんな苦しんで迷っている。呼びかけることからだと思う。のぼたん農園では呼びかけに応じて、今20人ぐらいの仲間がいる。73歳になって新しい友達が出来たのだ。呼び掛けたから始まったことだ。一人で絵を描いて居れば怒らなかったことだ。
のぼたん農園のような、自給農業という変わった集まりでも石垣島という5万人の人口の島で、20人の仲間が出来たのだ。希望はどこにでもあるはずだ。同じ方向の仲間を強く求めている時代が来ていると感じている。