石垣島には宮良川と言う美しい川がある。

宮良川を良く描きに行く。自然が作り出した川と上手く農地を作っている姿に魅了される。開南の集落から東に降りた当たりが宮良川の中流域の谷になっている。この谷に大きな橋があり、この橋の上で絵を描く。通る車に少し迷惑をかけているが、道幅も十分あるし、通行量が多いわけではないので、お許し願いたい。
下流方向には農耕地や牧場が広大に広がっている。一段高くなるその向こうはもう太平洋の海である。上流方向には於茂登岳が高くそびえている。沖縄県で一番高い山である。山深い印象がして、島とは思えない空気である。濃厚な植物の緑の濃さが満ちているすばらしい景観である。
石垣島では自然のままの流れというものを目の当たりにすることが出来る。人間が作ったコンクリートで固められた川ではない。於茂登岳から流れ出る水がすこしづつ渓谷を作り、自然の蛇行をしている。自然のままの川の両側につつましく耕作地がある。人間が自然と折り合っている見事な眺めである。
風景というものは人間が作り出すものだと言うことがよく分かる。良く世界の絶景というようなものをテレビでは放送しているが、手つかずの自然景観にはあまり関心がわかない。自然の絶景では絵を描く要因がなかなか見つからない。人間の関わりに惹きつけられる。
石垣島で一番大きな川が宮良川(めーらがー)である。石垣島の守護神である於茂登岳の北東を源流とし、中流では前山と宮良台地の間を流れ、南に向かって宮良湾へ流れ出る。 下流域ではオヒルギなどのマングローブ湿地が「宮良川のヒルギ林」として国の天然記念物に指定されている。
宮良川水系には3基のダムがあり、沢山ある配水池から石垣全体の農地へ水が配分されている。流域面積が35.4㏊。河川延長が12㎞。石垣では一番の川で、沖縄県7番目の川である。石垣島の農業を支える川となっている。
川の岸辺には少しでも平地があれば、水田が耕作されている。蛇行する川とその間を埋めるように作られている水田。田んぼを飾るように、亜熱帯の花々が縁取っている。田んぼは調整池であって、毎年のように水をかぶることがあっても耕作が続けられている。
川は自然護岸で、両側には農道が続いている。大雨が降るとその農道が冠水してしまうことも良くある。下流域では田んぼが耕作がされなくなって、洪水が広がり困るようになったと言われていた。
田んぼは遊水池なのだ。田んぼが洪水を防いでくれている。一度くらい水没しても、数日の内に水が引けば、田んぼは何とか立ち直る。人間が暮らすと言うことを、守りながら、生産の場となるのが田んぼだ。それ故に、暮らしと見事に調和して立地している。
こうした自然に即応して作られた田んぼは今や極めて少なくなっている。残念なことだが人が住まなくなり、集落そのものが消滅して行くという残念な時代だ。都市化して行くのは世界中共通なことだが、その限界に達したと思われる。コロナのような感染症が広がる。
石垣島のこの美しい景色ももしかしたら、消えて行くものなのかも知れない。いや、なくしてはならない大切な物だと思うが、何とか残せないものだろうか。美しい景色を作り出し、その中で暮らす。これこそ人間の暮らしの究極のものだと思う。
石垣島に残るこの美しい風景が、かけがえのないものだと言うことを知らなければならない。田んぼが失われてからでは遅い。沖縄本島でも、与那国島でも田んぼが失われた景色である。失われると同時に、沖縄の文化の根底にあったイネ作りをみんな忘れてしまったのだろうか。失った美しいものの意味を気付かず暮らしている。
今石垣島に残る田んぼのこの美しさを描くことだと考えている。絵にして残しておくことはできる。人間が関わることで生まれてくる景色の中の世界観を表現したい。と言ってもそう大げさなことではない。記憶にある世界を今目の前にある宮良川の風景を見ながら描くことだけができる。
宮良川の空気の中に身を置くことで、記憶の世界がよみがえる。そのよみがえる世界が立ち上がって来るまで描いてみる。何故か分からないが、あるとき風景の色彩が、色として立ち上がる。そうだこれが私の世界だと確認できる。そこまで描くことになる。
もうそれは宮良川と言うことでもない。私の内なる良い世界のことになる。宮良川を目の前にして、見ながら描きながら、宮良川でないというのもおかしな事だが、描こうとしている者は宮良川に触発されたものだ。ただひたすら絵を進めていると、あるときそこのきっかけが現われてくる。その現われたものを展開して行く。
消してしまうことではっきりすることもあれば、それを広げて行き解決することもある。どうすればどうなると言うことは全くない。ただただ絵の前で描き続ける。思いつくことはすべてやる。後はどうにか行き着くこともあると言うことになる。
宮良川が記憶の中に入り込んで絵になる。記憶の中の宮良川は川という象徴のようなものになって、自分の中の世界観を形成する。宮良川がそういう世界を生み出している事を教えてくれる。だから、私の絵の宮良川は川ではあるが、宮良川ではない。
中川一政の箱根駒ヶ岳は山であるが、あの絵から駒ヶ岳を想像してもそれは違う。駒ヶ岳をにらみ続けて描いている絵だが、駒ヶ岳を写しているわけではない。あるのは結局の所、中川一政という人間と言うことになる。
ここが絵のおもしろいところだ。別段駒ヶ岳ですねとは誰も思わない。あの強烈な筆遣いと、画面の中で渦巻く力に圧倒される。そしてそれを描いた、中川一政という人間の精神の気高い強さに、刮目する。絵はそれだけで良い。いつかそういう私の絵が描ければと思う。