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笹村 出-自給農業の記録-

絵は「分からないこと」の表現

      2025/10/27

 

写真の絵はまりマリユドゥの滝の描き出しのもの。下に昨日の日曜展示で出来上がった絵の写真を出した。この時点では何になるかは分からないまま始まっている。ただ美しい調子だけを求めて、画面を探っている。筆触とか、色調の濃淡とか、水彩画の微妙な変化を楽しんでいるといえる。この段階気持ちよくなければ進める気になれない。

まだ何を描くかはわかっていなかった。出来た絵もマリユドゥの滝でなくても別段良い。水の流れが現われたので描いていたら、西表で一度描いたことのある滝のようになった。滝の問題ではなく、真ん中に白い流れが欲しかったのだと思う。

西表島で緑の魔境を見た。その印象があまりに強くて、悪夢でうなされたことがあるほどだ。緑というもので人間の暮らしを覆い尽くしてしまうという恐怖を感じた。折り合いの付く自然ではない。西表の自然環境の中では、自給の暮らしなど到底出来ないと思えた。余りに緑の勢いが強すぎる。人間のエネルギーに勝る、植物のエネルギーが溢れている。

西表の緑の魔境を見るまでは、自然は親しみやすい優しいものであった。境川村の藤垈の自然である。山に入り、そもまま一晩寝ることが出来る自然だ。子供の頃に家を出て、晩年まで山暮らしをした人が実際にいる。子供の頃はいつでもそ山に入って暮らすことが出来る気でいた。藤垈の自然は何も怖いものではなかった。

西表の自然を初めて見たときに、山に分け入ることが出来ない。山の中に何があるのかが見えない恐怖に支配された。何が起こるか分からない色濃い緑に対する恐怖心にドキドキしていた。その西表の緑を恐る恐る絵に描いた。そして、西表島は自然遺産になった。恐怖の自然遺産だ。人間の暮らしよりも、島の自然の恐怖を優先しなければならない神秘の土地になった。

それは当然のことだ。あれだけの緑の力を前にして、農業は不可能だ。人間が暮らすことが出来るのは、海岸線のほんの一部に過ぎない。西表に暮らしてきた人々にしてみれば、とんでもない話になる。山猫より人間を大切にしろという、島の人の主張があった。当然のことだと思う。しかし、申し訳ない考えかもしれないが、あの自然は日本の穏やかな自然とは別格のものなのだ。

その別格という意味は、分からない自然があると言うことだ。人間が管理など出来ない、絶対的な自然の力がある。植物のエネルギーがあふれ出てきていて、人間が割り込むことなど出来ない。恐ろしさである。もし割り込むのであれば、自然と闘い破壊するほかない、「人間と戦う妥協しない自然」である。

絵を描いているとき、何も分からず描いている。分かったことを表現しようとしているわけではない。分かったことを分かったように描いているものは絵はない。それは絵のようなものではあるが、絵とは言えないものである。絵の素晴らしいところは、私には分からないのだと言うことまで表現できるところだ。

実際に描いていて、どうにもならなくて、もうダメだと描いたところだけが、分からないまま絵になる、と言うことの方が多い。すんなり描けた気になったようなところは、世界の一面に過ぎないことが後になり感ずる。感じていることの広がりや大きさを思えば、描こうにも描けないことばかりなのだ。

美しいと言ったとしての、その美しさを描ききることなど出来ない。写真とはまるで違う表現法が、絵なのだ。その美しさは分からないからこそ、無限の空間を伴っている。匂いや温度もある。それを小さな平面の中に閉じ込める作業だ。絵に出来るはずもない。もう一つ宇宙を作る以外に方法は無い。もう一つ命を作るほかにない。命は神秘である。

絵を描くと言うことは実は出来ないと言うことを示すことで、その出来ないことを伝える方法なのだと思う。このように出来ない。このように分からない。このように不思議だ。様々な事象の解答を求めて描くのではなく、出来ないという意味を伝えることが出来る、独特の表現なのだと思う。

こんな美しさを認識した。しかしその認識自体の理由が不明だ。その不明を不明のままに絵に出来ることがあるに過ぎない。西表島の自然のことは実は印象だけで何か分かっていることはない。しかし、その分からないと言うことの、分からないという在り方を、絵にすることが出来る。

絵を描くと言うことは、分からないままに終わると言うことである。分からない生きると言うことを受け入れるために描いているとも言える。只管打画と言うことしかない。何か答えを求めて描くのではなく、応えはないという命の真理を確認すると言うことのために描く。

西表の自然をわかることなどできるはずもない。何しろ、イリオモテヤマネコが、何万年も小さな島に孤立して暮らしていた、きわめて特殊な自然なのだ。その緑の魔境の神秘を絵では、神秘である。わからない人間が到達できないという、別世界をわからないまま表現することができる。

絵は世界をわかりやすく説明できるようなものではない。むしろ世界は理解不能だ。しかし、巣の無限の不思議の中に魅力にあふれているということを、表現するものだと考えている。そもそも世界をわかるなどということは人間にできるはずもない。大事なことはこんな風にわからないということを表すことが可能だということになる。

科学は真理という結論を求めて論理で進められる。芸術は世界というわからない全貌を、わからないまま受け入れることができる。自分の感性でとらえた世界全体を、断面として表現する。それは花一輪を描くとしても同じことなのだと思う。花の中にある世界をこう感じた。と受け入れて表現する。

見る人の中には描いた人と通じるものの味方、感じ方の人もいて、わからない世界をわからないまま共感できるのではないだろうか。ゴッホだって世界が分かったわけではない。マチスだって、同じことだ。世界の不可思議を絵にしている。世界はこのようにとらえるしかないと言っている。

人間が生きるうえで大切なことは、世界は説明できないものだ、と知ることではないだろうか。だから宗教があり、芸術がある。絵を描くということと宗教は似ている。修業なのだ。生きる行なのだ。商品としての絵画はあくまで装飾品としてのインテリアである。似て非なるもの。

私絵画は別物なのだ。そのことに気づくためにずいぶん遠回りしたかもしれない。自分にとって絵を描くということが、どういう事なのかをぐるぐるまわりまわってきた。何かが見つかったということではないが、この方角でよさそうだという安心は得た。

ただ一人の道である。しかし、同行二人である。仲間と共に歩むほかない。一人の行ほど危ういものはない。私が春陽会に初出品したときに、中川一政氏が集まりの冒頭に、これで春陽会を辞めますと言われた。春陽会には出さなくなった。中川氏は偉くなりすぎて春陽会に仲間がいなくなったのだろう。

幸いのことに、偉い人間どころか評価のない絵描きである。水彩人には仲間がいる。ありがたいことだ。この先何があるのわからない。どこまで行けるかもわからないが、この行を生きている限り進んでいってみることができる。大きな楽しみがある。当たり前の人間として、行けるところまで行くつもりだ。わからないことをわからないままに。

 

 

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