甲府盆地を描いた。

今回の小田原に来て、お茶畑とため池の草刈りをやるつもりだった。雨で草刈りができなくなったこともあり、甲府盆地に来て絵を描いた。絵は日曜展示に乗せる。南アルプスと、富士山を描いた。子供のころからの眺めなので、どこに行けばどんな風景があるか、わかっている。昔より道が増えたので、たいていの高い場所まで入ってゆける。
その高いところに、多分移住者と思われる人が住んでいる。確かに山梨は東京に近いし、生活も便利だ。そしてたいていの場所が長めがいい。法律的にはどうなっているかはわからないが、過疎になった藤垈のさらに奥の大久保地域にも人がまた住み始めている。若い女性が犬を連れて散歩している姿によく出会う。
春日部先生と何度か桃畑を描きに、一緒に連れてきてもらった。先生はいつも先に入っていて、「笹村君の描きそうなところを見つけておいたよ。」といわれる。その場所に連れて行ってもらうと、大体面白い絵になった。これは風景を描くということでは、よほど大切なものを教えていただいたのだと思う。
今回はほったらかし温泉というところに行ってみた。絵は描けなかったのだが、ずいぶん高いところまで道が上がっていて、よくもこんなところに温泉を掘ったものだと思った。入ってもよかったのだが、入らなかった。その付近で絵が描きたくなるところを探したのだが、少し離れたところにいい場所があったので富士山を描かせてもらった。
そういえば、甲府盆地に来た時には写生で描いている。なぜかここでは見ながら描くのが心地よい。それが、石垣に戻り描いているうちに出てくることになる。この広い空間の感じは、見ないとわからないのではないだろうか。しかし、盆地を埋め尽くすようにある、家また家は、絵にかく気にはならない。そこにはやはり畑が広がっている。
高いところから見える俯瞰の景色があればいいというわけでもない。農地がなければ描かない。俯瞰でなくとも、農地が切り立って、傾斜地に上ってゆくようになっていても、描きたくなる。要するに、農地の区画が正面から見えて、その区切り方が面白いと急に描きたくなる。私にはその図面のような畑の区切りが、絵に描きたくなる。
それは俯瞰で下のほうに図面のような畑が見えると描きたくなる。単純にもうそこに絵があるような気になるのだ。甲府盆地の南側ののお盆の淵の高台で生まれた。そこからいつも甲府盆地の絵図を上から見ていた。盆地を横切るように笛吹川が西から東へと直線を描きながら横切っている。
そしてその両側には田んぼだ。4月になれば川の周囲は湖のように、水が張られ光り輝く。梅の古木によじ登って、上からその景色を見ながら、あそこが油川だ。あそこが砂アラだと教えてもらった。おばあさんは日がな一日眺め暮らしていた。そして、昔は甲府盆地はすべて海だったんだよ。というのがいつものことだ。
谷間にある村を描いた。昔の藤垈のような気持ちで描いた。谷間に沿うように家があった。13隣邦の部落。13貧乏といわれるくらい、家は小さく貧しかったのだが、確かな日本人の暮らしがあった。親子がご飯を取り合うほど、食べるものはなかったけれど、前向きな人間が暮らしていた。70年も前のことになる。
今頃の季節が一番いいかもしれない。絵をかいていても寒いというほどのこともなかった。夜明け前に、花鳥公園と今ではいう、一本杉の上に描きに行った。そこからの夜明けが見たかった。途中にあるファミマで温かいカフェラテを買って向かった。甲府盆地で絵をかくなら、ともかく夜明けから描く必要がある。
まだ暗い盆地の空が、ふたを開けるように明るくなってくる。この感じだ。これは他にはない空間になる。徐々に南アルプスのほうに、大体は甲斐駒のとがった三角が明るくなる。まだ雪はない。空は茜色。今日一日の幕開け。昔は盆地の底は真っ暗だった。夜明けでも甲府盆地はすでに動き始めていた。
徐々に明け始めて驚いたことに、放棄地ばかりになっている。桃、ブドウ、の果樹園だったはずが、伐根されたのだろうか。ただの荒れ地になり、ススキとセイタカアワダチソウが広がっている。何が起きているのかわからないが、この辺りも大きく変わるのかもしれない。さよならだけが人生だ。うまい酒でも飲むほかない。
こんなことになったのは、あのリニアモーターカーだ。11兆円もかけて、ふるさと壊しをした。あんなものができても、通過するだけのことだ。南アルプスの下を突き抜く工事は不可能なことだ。4兆円費用が増えたというが、そんな程度で済むわけがない。できたとしても利用価値すらないだろう。工事をしたいがための無駄な破壊。
こんなことを考えながら、絵を描いていたのだから、どんな絵になったことやらわからないが、今はひたすら絵を描くことができた。それで十分な時間をいただくことができた。できることはそれでも生きるということであって、生きるということは、自分には絵を描くということになる。
藤垈に戻ると、日本がどれほどつまらなくなったのかと思わざる得ない。子供も生きるという現実に直面していた。坊ケ峰の開墾に出かけて、石拾いなど手伝った。サツマイモを植えようという話だったが、そのサツマイモは結局食べられなかった。あれはなぜできなかったのか。水まで運んだのだが、根付かなかったのか。
暮らしはぎりぎりだったのだと思う。サツマイモができないということは、かなり深刻なはずだが、開墾で畑がもらえるという事だけでよかったという事なのか。それでもその開墾した畑も、すぐにお隣の方の畑になった。どういう事情があったのかはわからないが、お金になったということだったのか。
その開墾した畑はよく覚えている。今回も車で通った。まったくの荒れ地だ。それは坊ケ峰全体がそうで、頂上のテレビ塔だけが林立していて、なだらかな山全体が、畑になった面影すらない。そこをリニアモーターカーが貫いたのだ。人間の生まれて、死ぬまでの短い間に、景色まで変わる。
母は寺尾で生まれた。藤垈よりも下の部落だ。祖父が山梨に来て最初に暮らした寺があったところだ。母は寺尾が好きだった。寺尾は甲府盆地に突き出した半島のような尾根の上の集落である。陽の当たる部落だ。見晴らしも格別に良い。畑には石が少なくて、石拾いがいらないから楽だと言っていた。
藤垈は川の扇頂にあたるところにあり、土よりも石のほうが多い地形だ。石拾いに明け暮れて、やっと畑の土になったと思う頃に、土石流がありまた、河原に戻る。そして石をどけて畑に戻す。まったくフンコロガシのような暮らしである。何度も流されて、ついに、河原の桑畑はなくなり、竹藪すらなくなった。
それでも、畑を作り、田んぼを作り、自給自足を続けた。なぜかそんな暮らしのほうが幸せだった。その日を生きるという喜びを身体に感じる日々だった。子供の自分でも家族みんながひたすら生きている。そしてその暮らしに自分も加わって働いている。多分本当は違っていたのだろう。
祖父は私に暮らしを教えていたのだと思う。昔の僧侶はみんな自給自足で暮らした。畑の前でそう話してくれた。絵を描けないで行き詰まった時に、祖父の教えを思い出して自給自足の暮らしに戻ることになった。やはり、山梨に来ると昔のことを思い出してしまう。今石垣の自給自足の勉強会をやっているのも、祖父の教えなのかもしれない。