ともに生きる かながわ憲章

   

 

ともに生きる 翔子

一 私たちは、あたたかい心をもって、すべての人のいのちを大切にします

一 私たちは、誰もがその人らしく暮らすことのできる地域社会を実現します

一 私たちは、障がい者の社会への参加を妨げるあらゆる壁、いかなる偏見や差別も排除します

一 私たちは、この憲章の実現に向けて、県民総ぐるみで取り組みます

神奈川県の憲章である。この字の力に目を奪われた。すごい字だと思う。いい字である。こんな絵が描きたいと思い、この憲章のことを読んでみた。津久井のやまゆり園の恐ろしい事件のあと、二度とこういう事件を起こしてはならないという事で作られたものだそうだ。この憲章に心がこもり、ともに生きる社会になってほしい。この文章には、私たちは、と4回繰り返している。問題は私たちにあるという自己確認であろう。私たちには当然すべての人間が入っている。私も入っている。私から偏見や差別をとり除くことができているだろうか。誰もがその人らしく暮らすことの地域社会づくりに取り組んでいるだろうか。全ての人の命を大切にしているだろうか。考えさせられた。ともに生きることが大切であって、人に勝つことではないという確認。

ともに生きるとは競争社会をこえるということだろう。競争以上に助け合う思いで生きるという事だろう。生きることに競争を必要とするというのは否定できない。勝ちたいという気持ちも大切である。機械と将棋をしても勝ちたいと頭をひねる。負ければ釈然としないような気持になる。勝つために努力もする。この勝ちたいという気持ちは人間が向上する上で大切なものである。その気持ちは、他人に勝つという事ではなく、自分の向上に向けることが大切なのだと思う。経済的な意味では、他人に勝たなければ自分の利益が出ないという事がある。物を売るとすれば他社の製品に勝たなければならない。しかし、私が最高だと思う卵を作ることが大切で、最高の卵が出来れば生きて行けるという社会にしなければならない。田んぼをやっている。最高のお米を作っても生きて行けないという現実がある。そこで出し抜く生き方になりかねない。ともに生きる社会を作らなければ解決はない。

人間として大切にしなければならないことを、まっすぐと守ることで生きて行ける社会にしなければならない。田んぼをやっているときに、畔で昼寝をしている人も居る。働かないで雑談をしている人も居る。泣き叫んで邪魔をする子供もいる。これが現実である。そのなかでも一生懸命働くことのできる人も居る。その人なりである。働ける人は自分を磨いているのだと思う。そうした誇りの中で輝いて生きている。すべてはそれぞれの人の輝きである。人間は田んぼをやるという事で磨かれ光を増す。やれる人は一人でやることを好む。それはまだひとりでしかできない人なのだ。助け合うという事は、実は厳しいことだ。十の力の人と、一の力の人が助け合うという事は11を5,5づつに分かち合うという事だ。10働いて5,5しか得られないという事を、ばかばかしいことと思うか、役立ててそれでよかったと思えるかである。

キレごとで済まないという感覚を悪い社会が作り出している。瑞穂の国は共同の社会だった。田んぼというつながりの中で、競争だけでない協働社会が、思いやりの国を作り出していた。資本主義経済の考え方がしみこんだ頭を、乗り越えない限り、ともに生きることは出来ない。自分という人間を磨き直さない限り、誰もがその人らしく生きることは出来ない。この素晴らしい憲章の基礎にはそいう厳しい生き方が求められている。戦争が起こりそうである。もう起こっているともいえる。戦争はまさに偏見と、差別である。憎しみによって相手を理解できないために起きる。憎しみが消えない限り戦争は無くならない。偏見や差別は能力主義から来ている。能力があるから利用価値が高いという、経済から乗り越えられるかである。

 

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