田舎の暮らしと都会の暮らし

   

黒姫山 10号 道を描いている。道を描くのは何か思わせぶりで、好まないのだが、黒姫あたりには良い道が沢山ある。

田舎の人口が急減している。そして、地方の町や村が消滅して行く。政府は地方の人口減少に歯止めをかける政策を年明けに発表するそうだ。それでも地方の人口減少は続くとしなければならない。私は田舎暮らしが好きだ、都会暮らしは嫌いだ。地場・旬・自給をこのブログでも主張している訳だが、世間全体がそうなるとは考えていない。人間の自然の流れだと思う。私としては地場・旬・自給の主張は正しい主張だとは思うが、世界は崩壊に向かっていて、正しい方向など見向きもされないだろうと、不安を抱えながら考えている。残念なことだが、地場・旬・自給は軟着陸の思想だ。つまり、空中分解はせめて逃れようという、緊急避難的な考え方だ。それぐらい世界の方角を悲観して考えている。田舎から、都会に人が移動するというのは、水が高みから低い方角へ流れるのと同じことだと思っている。田舎はまともで、総合的な人間でなければ生きることができない。日々、身体を使い、健全に暮らさなければ生き抜けない。生きものとしての人間の世界である。都会は、頭だけでも生きることができそうだ。そう見える。

私は絵を描いて暮らそうとした。都会での暮らしだ。絵を描くのは田舎でもできるのだが、絵を販売する道を探るのは、都会でなければできない。そう思ってあれこれ画策したが失敗に終わった。失敗して良かったのだが、都会でなければ、絵を描いて暮らす道は探せないということは理解できた。肉体労働を出来ればしないで済ませたいというのが、人間の本性だと思っている。豊かな社会になれば、肉体労働を避けるようになるのが人間ではないか。肉体労働は健康にも必要で、動物としての人類には、健全なことなのだが、出来れば避けたいという肉体の発する負担感がある。身体より頭を使う方が良いというか、楽で大儲けが出来ると人間は考えているのではないか。そういう本音があるから、私のように失敗でもしなければ、なかなか田舎暮らしに進むような人間は少ない。もちろん、田舎には驚くほど立派な人がいて、身体を使うことを喜びとして、健全に暮らしを立てている人がいる。この久野にもそういう偉人ともいえるような前向きな労働として農業をしている人が、100人くらいは居るという実感がある。

しかし、それは久野の1万人の中の100人ぐらいではないだろうか。つまり1%ぐらいのものだ。無理に多く見積もっても300人であって、決してそれ以上にはならない。私などはその300人には入れない人間だが、その300人の素晴らしさを人に伝えたいと考えている。どんなタイプの人間も3%は存在するというのが、保険の成立する理論なのだそうだ。つまり、学校のクラスに1人くらいは、それぞれの方向に極端に変わっている人間がいるという感じだ。オリンピックを目指す人、学者を目指す人、芸能人を目指す人、伝統工芸を受け継ぐ人、農業を目指す人。自堕落に生きる人。3%は常にいる。この少数派をいかに評価するかが、良い人間社会だと思っている。この3%の動きだけを見て、大きな世界の動きを見誤ってはならないとも思っている。少数だからと言って価値が低いということはない。しかし、少数だから下手をすると無視をされたり軽視されたりして、消滅して行く。

人口が減少するのは、人間の生き残るための本能の反映だと思う。政府が人口減少を止めたいのは、経済の国際競争力強化からだ。むしろ、少数派の中にこそ、軟着陸のヒントがあるというのが、私の地場・旬・自給の考え方である。消滅する集落を生かすことこそ、人類の軟着陸の可能性を秘めていると考えている。消滅集落を維持再建できるとすれば、この少数派を生かすしかない。消滅する集落が、過去のように、江戸時代のように、人間の暮らしの基盤になるとは思っていない。しかし、江戸時代のような人間の暮らしを伝えて、守ってゆくことが、人間の生き残る細い道だと思っている。資本主義社会は遠からず終わりを迎えるだろう。すでにその兆候は強まってきている。その時には、悲惨な争いが起こるはずだ。競争に勝とうとしてあがくことだろう。あがいてもあがいても、勝てない競争に陥るはずだ。それでも人間らしく生きるというところに、地場・旬・自給の軟着陸思想がある。

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