水彩画の思想
水彩人展が上野の都美術館で始まった。初日から、相当の人に来て頂いた。この寒い時期に開催して来てもらう事が出来るか、ある程度は諦めていたのだが、思いのほか見ていただいて言る。とても嬉しい。私の絵がどうこうと言う事は一番判らないことだ。つまり私はどうもいわゆる絵画に向かっているのかどうか。そういう一番肝心な辺りが自身で不明だ。もちろん絵画とはむしろこういうものだ、という方に向かっているつもりなのだが、その原則に従おうというために、幾つかの要素。たぶん説明とか、伝達とか、そういう機能部分を端折ってしまおうと、これが飛躍、飛躍のし過ぎで、自分の思考や、感性も、裏切るというか、見えないようなおかしなこともあったりしている。まあーそれが絵画という手段の在り様といえば言えて、言い訳のようなことがグタグタ出てくる。
昨日ある評論家の方が見えてくださり、絵画全般について、とても大切な指摘をしてくれた。日本画と油彩画は違うものである。どこまで行っても融合するようなものではないだろうというのだ。その理由がおもしろかった。「日本画というのは制作の過程は描き出す前にある。下書きやら推敲というものがあり、本画の制作というものは結論を描いているに過ぎない。油彩画は描き出したという所は糸口を見つけたという段階で、そこから画面の上で、試行錯誤する制作が行われる。つまり真逆なもので、それは両者の思想や哲学の違いからきている。」こんな考え方だった。それは大変腑に落ちる意見である。それでは、水彩画は何なの、こういう呼びかけのようにも聞こえた。
水彩画の思想は、「本質だけを描こうとするもの。」と私は考えてきた。だから、日本画の人でも、油彩画の人でも、下書きや、草稿では水彩絵の具を使う。簡便ですばやく考えていることを表すことに重宝だからだ。メモのようなものであろう。それは材料の特性から来ているが、実はそこにもう少し本質的なことが含まれていると、考えてきた。絵を描く場合、ああかな、こうかな、と言う事を頭の中で置き換えてみてはいる。しかし、そのあたりをスケッチをして、形として、表してみる。たぶん、そのときその表現対象の骨組みというか、肝心な所を書きとめようとする。ラフスケッチ。骨格を書き留めて、その後の制作を具体的に想像する。その作業に実に水彩画は適している。そのために、日本画の人も油彩画の人も、ここでは水彩を利用する。思いつきやら、脳裏によぎるイメージ、考えを書き留めるのに、何故水彩は適しているのか。簡便もある。ここを重視している。「水彩で描く画面が、頭の中に出来たイメージに近いのだ。」頭の中にあるイメージ即、絵画という訳ではない。少なくとも油彩画や日本画はそう考えてきた。それは思想の断片のようなものである。
水彩画は頭に浮かぶ、そのイメージの骨格こそ、絵画の中枢で、現代ではそれを装飾したり、仕上げたりすることなく、直裁に示すことが。肝要になっていると考える。文章でも考えていることは、言葉として頭の中にイメージされるのだが、いつも絵を描いている者は、絵を描く目でものを見ると、あるいは絵の事を考えるだけで、頭の中に、イメージがずらずらと作られ消えてゆく。このイメージの一つを描き止める。この作業に水彩画が向いているのだ。それはあくまで、下書きである。こう言うのが、日本画や油彩画の人である。ところが、その頭の中にあるイメージの方が、直裁でおもしろいのではないか、こう考えているのが、水彩画の思想である。少なくとも私はそう考えてきた。所が、一般的な水彩画は、日本画の真似か、油彩画の真似である。と扱われてきた。そのために思想も当然水彩画の思想というようなものに近づけなかった。水彩人はそれを覆そうという運動体だろう。