偶然と意図的なものの関係

腕で、あるいは手に任せて絵を描いていると、偶然現われるものと意図的なものの狭間で描いていると言うことを感じる。絵を描くと言うことは自己深化であり、自己表現だと考えて居るので、自分というものが出てくるためには、偶然を拾い上げる絵と自分という位置関係が、今の所良いと考えて居る。
意図の存在する筆触を、人為として煩わしいとするのか、人間が描いたという意図を消そうとする絵画がある。ハイパーリアリズムと呼ばれた、描いた人の存在を消す、絵画があった。スプレーで描いて筆跡を消すような操作だと思う。確かに肉眼で見ている画面には筆跡もなければ、にじみもない。
絵は現実を画面に写し取るものではない。新しく世界を画面の上に描き、作り出すものだ。その世界は自分が生きている世界を表現しているので、確かに現実とかかわりはある。現実を描き移したからと言って、自分の世界の表現にはならない。
一見写真で撮ったと見える絵画である。写真であれば、誰がシャッターを押したとしても同じである。あるのはどこを撮るかぐらいである。そのどこを描くのかも偶然にシャッターを押したに過ぎない言うような場面を描くような絵らしきものも現われた。
しかし、そもそも人間が表現していないとすれば、それは絵画なのだろうか。表現芸術とは言えないと思う。なにか奇をてらっているに過ぎない。しかし、自己表現を避けるという意味では、塗り絵のような絵がある。同じ絵を何千枚も手描きで描く、販売用の泰西名画などと呼ばれる絵だ。
中国にはそういう絵画制作村がある。モナ・リザなどの模造品が堂々と大量生産されている。お土産のように売られている。泰西名画のような装飾品もたくさん並んでいる。こういうものを絵の範疇には入れられないだろう。問題は自由に描いていい人が似たようなことを、絵画制作だと勘違いしていることにある。
絵の模造品がお土産として売れるという事と同じで、絵らしきものを描いている人が文化勲章をもらうような時代になっている。そして、芸術としての絵画が見当たらなくなった。絵画としての自己表現の手段が、通用しなくなったという事であろう。表現手段がコンピュター革命で変わったということだ。
アルプスのような山が遠くにあり、青い空に白い雲。そして針葉樹があり、川が流れている。手前には草花が散らされている。と言うようなありきたりの絵を手順に従い、大量生産するアルバイトがあった。安手のキャンバスに安絵の具が支給されて、描くと言っていた。
しかし、そんな泰西名画の販売まがい物と似たようなものが、塗り絵のようなバラの絵というのもある。これらもまた、刷毛目を生かしたような、塗り方で描く人を消して行く。誰が描いても同じになるような、陶器の絵図家のような手順で描く、バラの絵。いずれにしても人為を消し去る絵画のまがい物。
一方でその人為を重要なものだとするのが、筆跡で表現する書道ではないか。書道で重要なことは、書いた人物の問題である。西郷隆盛の書が大切にされるが、代書屋さんの字は実用品。絵画は本質的には、人間がどう見ているのかと言うことを表す。
しかし、人為を意味あるものとした場合、その人為をまねることが目立つようになる。西郷隆盛風の書。だから書道と言うより、書写と学校では呼ばれる。上手に書かれたお手本を写すことが、書写。自分の字を書くと言うこととははじめから目的が違う。
絵も明治時代までは、お手本をまねてそっくりに描けるようになるまで修行するというのが、日本画の画家修業だったわけだ。ヨーロッパから近代絵画が伝わるまでは絵というものは、そういうものだった。今でも日本画ではそういう傾向が強い。だから、偽物の絵というものが問題になるとき、大半の絵が偽物と言うことになる。
自分にとって世界がどのように見えているかを、どう感じて、どう受け止めているかを、絵で表すのが絵画だと考えて居る。こう確認しなければ、そうではないとするまがい物が蔓延しているのでややこしい。もちろん人が絵をどのように考えるかは、どうでも良い。
墨絵のぼかしとか、垂らし込みとか、墨流しとか、偶然を絵に取り入れて人為を感じさせないような手法はある。あるにはあるが、偶然を人為的に作ると言うことも、あざとい、いやらしさを伴うものだ。偶然らしく人為を見せようという嫌らしさを感じる。
芸術としての絵画は人為そのものだ。自己表現なのだから当然のことだ。その人為がそのまま出て表現になる。その表現の表れは人間そのものだ。絵は人間次第のもののはずだ。絵は良いのだが人間がダメだというようなことはあるはずがない。人間の方がダメに見えるのは、社会の価値基準が芸術世界では違うからだろう。
芸術の世界での人間の基準は真実であるかどうかだけだ。社会に役立つなどと言うこととは関係がない。人迷惑も関係がない。もちろん役に立つ方が良いわけだが、ゴッホのような社会的に見ればどうにもならない人が、真実に生きるために、狂うほど突き詰めた人が、真の芸術家なのだ。
一本の線が、その描く人の意思を反映していなければならない。意図を持って描いた線でなければならない。その意思を込めたものが、偶然に引かれたもののようでもなければならない。絵を描くと言うことは、偶然のように引くことで、その人間の意図が出てくるような矛盾の行為になる。
人間が自分の世界観を表すと言うことになれば、魅力のない人間の描いた絵は、何の魅力もない。当たり前のことになる。絵の前に人間が問題になる。では人間が成長するためにはどうすれば良いのか、私絵画を絵が着続ける他ない。と言うのが私の考え方である。
絵を描くことが自分の人間を成長させる方法でなければならない。それが私絵画の深化になる。絵を描くと言うことは、日々の一枚なのだから、絵を描くことがその人間をくだらないものにすることであれば、描けば描くほどくだらない絵になる。まあ、その人が絵を自己表現とした場合に限られるが。
いわゆる学んだ、いい絵を描こうとすれば、当然自分の絵ではないことになる。人が買いたい絵と思われるものをまねると言うことになる。ほぼすべての商品の絵がここに収まる。私も似たようなことをしていて、ここをどう脱するかばかり考えて居る。まねをどうすれば脱せられるのかばかりである。
マチスが好き、ボナールが好き、中川一政に感服する。当然その絵が現われてくる。そこからどうすれば抜け出せるかの苦しみが、絵を描く戦いであったようなものだ。どれほどくだらないつまらない絵でも良いから、自分の絵でなければならない。こうあがいてきた。
石垣島に来て、絵の再出発をして、7年が過ぎ何とか、0地点に戻れたような気がしている。だからどれほど陳腐な、情けない絵が現れても、それを受け入れようと考えている。そうして日々の一枚を継続することで、自分には重要な世界が見えてくるはずだと信じている。
あと、計画では23年と半年である。それだけかければ、少しは近づけるかもしれないと夢を描いている。そのためには陳腐を恐れず、しかも謙虚に、小脳的に描くよう努力してゆきたい。ともかく反復訓練しかない。繰り返して徐々に小脳的になってきているのだから、あと23年半繰り返せば何とかなるかもしれない。