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笹村 出-自給農業の記録-

絵を描いているときに頭を過ぎること

      2026/02/26

二回目の苗代である。一番手前にプリンセスサリーがあり、順調に育っている。一番奥に「金のいぶき」が育っている。これは玄米から渡部さんが作っているものだ。1日だけ水道水に浸種して蒔いたそうだ。カビも生えたのだが、70%位が苗になっている。初めての経験でびっくりした。

絵を描いているときに、頭の中では様々な思いが通り過ぎて行く。できるだけ一つの考えにとらわれないように、過ぎ去るままにしている。雑念を捨てると言うことは、雑念にとらわれず、流し去ることだと。山本素蜂先生に教えていただいた。

無念無想で描くと言うことが目標ではあるが、なかなかそ言う立派な心境にはなれない。雑念ばかりの人間で、あれこれとらわれて描いている。しかもその雑念もなかなか流しきれない。それが私なのだと受け入れている。要するに心底俗物なのだ。

それでも、できる限り何も考えないで、腕に任せて、手に任せて、肉体で絵を描くようにしている。大脳は使わないようにと思って絵を描いている。こちらは確かに頭は使わなくなってきた。最近惚けていい加減になってきた性もある。ボーとして妄想しているのは年寄りの特技だ。

ともかく、腕の動きで反射的に描くようにしている。腕が動き出すのを待っているだから、ボーと眺めている時間ばかりで、何も進まない時間も多い。週一枚しか描けないのは、むしろ絵とにらみ合っているようなときだ。だけれどこの苦しいときが大切だと思っている。なにか起きているから止っている。

日曜展示を続けていると、そのことが分かる。どうしようもない日が続いて、その次に新しい絵が出てくる。新しい絵が登場するには、前の絵を否定しなければならない。この前の感覚を捨てると言うことが一番難しい。どうしても人間前の絵の繰り返しになる。

苦しくてどうにも絵が進まないときこそ、絵が進もうとしているときだと考えて居る。絵が湧き出てくるように描けるときは、むしろ、絵が停滞しているときだ。そう思うことにしている。ああダメだ。と思うときこそ何か大事なことが起きている。

絵をどう進めるかが一番頭に湧いてくるものなのだが、絵を描く上で役立っているのか、害になっているのかは分からない。そこでどんなことが浮かんできているのかを拾い集めて置いてみた。スマホのメモ機能である。しゃべればメモできるので、溜めておいた。ここに書き移してみる。

曖昧さをなくして行く。

色彩を多様化して行く。

やれる限り、手数を増やす。

腕で描く(これは良く頭に浮かぶ)。

悪くなるのを怖れず描く。

間違えからしか、新しいことは出てこない。

何が入らないか。何が必要か。

筆触を大切にする。

水の濃度が重要。

構図を考えない。

大切なものは中央に来る。

筆は色毎に使い分ける。筆は沢山いる。

心の中を描く。

曖昧さをなくして行く。

画面が動き出すまで描く。

色の調子と美しさだけで始める。

細部を見ない。全体があるだけ。

白の抑え方が重要。

頭は使わない。つかわない。

記憶の中はリアルだ。

こんなことを考えて居るようだ。ブツブツ頭の中を、よぎって行くのだろう。やり過ごすようにしている。やり過ごせる訳でもないが、なかなかうまく進まないから、こういうことが湧いてくるのだろう。こうしてみると、絵を描いているときには、絵以外のことは出てこないらしい。

絵は1人で描くものではないと考えて居る。歴史的に絵を見れば、1人で絵を産みだした人などいない。その時代が画家を生み出している。ダビンチを生み出したのもルネッサンスというイタリアのフィレンチェの世界観だ。あらゆる学問に興味を持ち、その結果絵画という、その時代の最先端の表現形式を選択した。

芸術というものは時代が生み出すものだ。その意味で20世紀の人間が描く絵画の時代の最後を示しているのが、マチスかも知れない。自己表現絵画の結論を描いている。セザンヌが自己表現の始まりであるなら、マチスは自己表現の結論だ。

その後の時代は多かれ少なかれ、商業主義絵画の時代といえるのだろう。絵画が投資対象になり、芸術としての意味は消えた。私が絵描きになろうとしたバブルの時代には、絵画投資の月刊誌があったのだ。そこに載れば絵が売れる。次に値上がり有望画家の羽生出。などと書かれていた。名前が同じ出なので覚えている。果たして値上がりしたのだろうか。

そんなことはどうでも良いとしても、絵を描くという「行為」と生きることの関係はより深くなっている。描く行為に意味があり、描かれた絵の意味は小さくなっている。特別には発表しないが、絵を描いています。と言う人にかなりの頻度で会う。

私が絵を描いているから、絵を描くらしいということを知ることになるのだろう。絵描きになろうというわけでもないらしい。どこにも発表はしていない。もしかしたら発表しているのかも知れないが、若い人とは世界が違うから、気がつかない場合が多い。

そういう静かに絵を描いている人は、自分が絵を描くと言うことは改めて人に語ると言うこともない。それでも、その人にとって絵を描くことが重要らしいなという感触はある。こういう大量に存在する、新しい時代の絵を描く人を、美術評論家はどのようにとらえているのだろうか。

まだそういう論評を読んだことがない。たぶん気がつくこともないのではないか。この発表はしないが、絵を描くことを生きることの中心に置いている人が現われていることは、芸術の意味の変容として重要なことが起きていると考えた方が良い。

このような見方は間違っているのだろうか。そうとは思わないが、世の美術評論家が商品絵画評論に傾いているので、本当の芸術の動きを見落としている気がする。商品絵画など、評論しているのは、提灯記事であり、記事のおこぼれで暮らしているのだ。

社会はコンピュター革命にさしかかっている。これから、人間が変わるというか、変えられて行くはずだ。コンピュターに変わることが出来ないものが、その人間が行う「行為」になる。当然のことだが、行為だけはコンプ-ターにはやってもらえないことになる。

この行為というものの奥深さ面白さが、人間が生きる意味として見直されるはずだ。このときにまるでコンピュターがやるような仕事を、絵を描く行為として行うほど馬鹿げていることはない。資本主義の終演の中で汚れた商品主義に飲み込まれるほどつまらないことはない。

先日コンピュターで制作してもかまわない、デザインコンクールの話をラジオで聞いた。人気投票で一番が決まり採用されたという。その結果が面白かった。少し出来の悪い人間が描いたものが選ばれた。完全な物はデザインであっても上手くない。少し下手にしてくれと指示しなかったことが、まずかったわけだ。

その下手なデザインを描いた人は、デザインを成し遂げるという頭を使ったはずだ。創造的な脳を活動させた。これはコンピュター任せには出来ない。そして完成した喜びを感じたはずだ。この体験がこれからの時代には重要になる。これだけは人任せに出来ない、自分の行為である。

私絵画は、芸術的行為を問題にする。自己内部世界の奥底にある核心部分を、絵画という平面に表そうという行為である。この行為そのものを芸術してとらえる必要がある。これほど深く心を揺さぶる行為はないだろう。この体験ほど、自己存在が生きると言うことの意味を、感じられる物はないはずだ。

 

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