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笹村 出-自給農業の記録-

「もったいない」と「断捨離」

   

 

「もったいない」がノーベル平和賞を受賞された環境保護活動家ワンガリ・マータイさんにより国際語「MOTTAINAI」として世界へ発信され、日本にも逆輸入され注目された。我が意を得たりという思いだった。私は何でも「もったいない」で、捨てない主義である。置き場が無駄など全く思わない。

そもそも「もったいない」は禅宗の僧侶だったおじいさんの口癖だった。どんな紙でも一枚一枚、延ばして、仕舞っていて、決して捨てることはなかった。ひいおばあさんは江戸時代生まれの人だから、何でも捨てないは当たり前のことだったのだろう。

今の時代消費が奨励される時代である。商業主義が社会を覆っているから、何でも早く買い変えさせようと、企業も政府も上げて躍起である。全く情けないことだと思う。日本が江戸時代に培った大切な文化を、資本主義が崩壊させたと言うことになる。

使い捨ての注射器が出来たときに、ガラスの注射器を洗って煮沸して使うよりも、使い捨てにした方が、経費がかからないという話が報道され、奨励された。びっくりしてしまった。余りにもったいないことだ。しかし、その方が消費社会にはふさわしいことなのか、と思ったが、勿体ないくてそういう考え方には抵抗があった。

今度は出てきたのが資本主義推進のための「断捨離」だと思っている。消費喚起作戦の一つだ。断捨離など一見仏教的な言葉のようで、大いに誤解を与えている。1年一度も使わなかったものは捨てろというのだ。ああとんでもないことだ。

無駄になるものなど何一つない。ゴミ屋敷だと言われようが、ものは捨ててはならない。断捨離の思想は執着心を捨てろと言うことなのだろう。それならば、捨てる前に買わない運動をした方が良い。物を買う前に、どうしてもいるものか、執着心ではないか考える運動の方が良い。断心不買である。

一度買って自分の物にした以上、物に対する責任がある。事物すべてに魂が籠もっている。捨てることはよほどの覚悟がなければ行えない。自分の腕を切り落として、達磨大師に投げつけた、慧可の心である。慧可断臂」は事物を断ち切るという意味である。

捨ててはならない一番の理由は物には魂がこもっているからだ。自分の記憶と事物は連動している。ものを捨ててしまうと言うことは、思い出も捨てると言うことになる。木切れ一つにもあのときあそこで使ったものだと言うだけで、ものの命を感じる。空き缶も一度拾えば、もうポイ捨ては出来ない。

「勿体ないの、勿体」とはどう言う意味だろう。ものが持つ本来の形を意味しているのではないか。物の実在と言っても良いかもしれない。形として物があると言うことの背景には、物が存在するという本質的な重要さが、存在している。石を見てそこに全宇宙を見るというような、意味での物存在である。

物体ないとは、実存を消失を意味することになる。物の本来あるべき姿がなくなる空白感を表している。物事のすべては繋がっていて、物が消えることは自分の内部のなにかが消えることでもある、という意識が籠もっている。この世に存在する物はすべてつながっているという、東洋思想の有り様から来ている。

「勿体ない」という言葉の根底には、すべてのものは存在することが当たり前ではなく、互いに関わり合って始めて存在できるという、仏教の思想があるとも言える。仏教の思想が起源となり、日本には昔から「もの」を尊敬し感謝する精神が根付いてきた。そして、ものの形がなくなるまで大切に使い続けなければ罰が当たると言われてきたわけだ。

断捨離などもってのほかである。物を置いておく方がその空間の費用を考えれば、無駄なことになると言うらしいが、とんでもない考え方だ。物を捨てると言うことには、経済合理性を越えた意味がある。私は小田原を離れるときに、それまでの絵を例外を除いて、ほぼ捨てた。絵を捨てることで、再生を誓った。

捨てることでそれまでの絵画制作を断ち切る必要があったからだ。石垣に来て描いた絵は死ぬまでのひとかたまりだと考えて居る。つまり私が生きた結論といえる。これから描く絵も、すでに描いた絵も連なっていて、その全体で私絵画である。捨てるときは死ぬときである。一緒に燃やして貰って結構かな。

ブログに石垣島に来てからの絵はすべて掲載している。その映像だけで良いかと思う。物は次の誰かが持てば、それが負担になりかねない。死ぬときに欲しい人にすべて差し上げて終わりにするというのが、一番良いかと思う。そして誰もいらないという絵は、燃やせば良い。

農業をやっていると、捨てる物などないと言うことがよく分かる。木切れ一つ、棒一本とっておけば役に立つ。だから、農家の納屋はゴミ屋敷である。必ず役立つと思いため込んでいるのだ。そのごみの山が実際に役に立つことが普通にある。

古民家再生の第一段階はゴミ屋敷の片付けという手順が、普通のことになる。次に建て替えるときの材料や道具までおいてある場合すらある。当然家の周りには、建て替えのための屋敷林がある。物と生きることとは連らなっていたのだ。

農業というのは、百姓と言うくらいで何でもやるという仕事だ。農作業はもとより、土木工事、食品加工、大工仕事、会計事務。何でもこなせなければ百姓家は成り立たない。だから捨てる物などなかったはずだ。どこの農家でも住宅部分と同じくらいの納屋があるものだ。

その納屋に機械が入るようになってから、別に機械小屋も必要になった。機械小屋の次は、加工工場である。こうして農家は膨大な物を抱えて生きることになった。昔ならば、味噌蔵は普通だろう。半地下になっていて、食料関係の何でもしまわれていた。

物すべてが次ぎ世代に残されて行く物だった。物は1世代で終わるような消費物ではなく、美田と同じく、物すべてが一族そのものなのだ。断捨離が言われるような世の中は不安定な物のはずだ。浮き草暮らしである。だから、私は絵という物を抱えている。

修行に生きると言う菩薩にとって、至る所青山ありではあるが、凡俗が安定して生きるには、それは無理なことである。だから物をため込み並べることで、安心立命をしようとするのだ。物への執着で心が安定するのであれば、物で心の隙間を埋めるのは悪いことではない。

一切を捨て去る。我が身を燃やしてまで修行をする。こういうことは凡俗には別世界である。だからといって、誰でもが安心に生きたい。であれば物は捨ててはならない。物を捨てることで、自分を支えてきた物を失うことの大きさを知るべきだ。

若者ならいざ知らず、年寄りが過去から共に暮らしてきたものを捨てると言うことは、実に危険なことだ。惚けてしまうことになりかねない。物との関わりで、過去との物をとおしての連なりで生きているのが普通の人である。押し入れにしまい込んであっても良いから、物は捨てない方が良い。

断捨離を広めたのは、山下英子さんという方だ。ヨガの思想から受けた物だという。全くヨガという物を理解していない。ヨガの行者と普通に暮らす人とは違うのだ。ブログを読んでみて、なるほどとこういう人が言うのだ。この人がやっていることを見ると、まさにヨガの行者とは反対ではないか。

ヨガの本質を見ず、都合の良いところだけのつまみ食いである。なるほど危険思想になるはずだ。世間に広まっているヨガ教室は健康体操のような物で、ヨガの思想を学ぼうというわけではない。断捨離すべきなどと言われると。腹が立ってくる。

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