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笹村 出-自給農業の記録-

八重山「シゲミ世界遺産」

   

 

石垣島で絵を描いてきて、惹きつけられているのが「しげみ・茂み・繁み・藪・草むら」だ。Ishigakiブルーの海。珊瑚礁。それは定番で、すばらしく特徴的な美しいものだと思うが、絵を描いている内に、却って面白くて興味深いものが「sigemi」になった。シゲミは自然の窓。

シゲミの魅力と行っても訳が分からないのだが、シゲミをあれこれ眺めていると、シゲミも多様で、ずいぶんと違うことに気づいた。子供の頃の、山梨のシゲミ、開墾生活の小田原のシゲミ、そして今いる石垣島のシゲミ、シゲミを見ればどこにいるか分かる。それぐらい違うものだ。

シゲミは人間と自然との境界線上にあるもの。道路の脇や、畑の脇などに存在する。シゲミは切り開かれたり簡単にする。また耕作放棄されるとすぐ再生する。新しく出来る自然でもある。暮らしと隣接する、人間と自然の境界線である。

この境界が様々であり、その土地の様相を一番現わしていると思うようになった。東京などにはシゲミらしきものはほとんどない。境界となるほどの自然領域がないために、境界を示すシゲミがほとんどないわけだ。あの藪につきものの竹さえ生えていない。

シゲミは自然の岸辺を現わしている。海の波打ち際のようなものだ。シゲミにランクを付ければ、石表島は10で完全である。立ち入ることなど恐れ多くて、その先は神領域である。石垣は8ぐらいで、いかにも人間が作り出したシゲミの極といえるだろう。与那国島は個性の強い自然のシゲミで8である。竹富島や小浜島のシゲミは6ぐらいだが、神聖が宿っている。

石垣島のシゲミを構成するものは、桑やススキに混ざり、観葉植物や熱帯の花木が野生化したものが旺盛なことだ。遷移を続けている動くシゲミである。石垣の自然のほとんどが、一度手が入った自然である。耕作された歴史がある。

その耕作が縄文時代の何万年前の所もあれば、江戸時代頃の場所もあり様々である。いずれにしても自然の浸食作用が極めて強いので、2,3年もすれば耕作地は跡形もなく、自然に飲み込まれている。この飲み込まれ方が、それぞれに違う。この違いがシゲミの魅力になる。

鮮やかな赤花や白く輝く覆うような花、そして黄色く月のような花が木に咲いている。世界中から集まった植物がその覇を競っている。石垣島のシゲミの魅力は、見たこともない花が不調和に咲いていることである。その代表がハイビスカスであり、アメリカセンダングサである。

かつて畑の防風林に植えられた植物が、自然に巻き込まれながらも、自然の中で生活を継続させている。モンステラがあったり、水辺には熱帯睡蓮の赤い花が広がっていたりする。あの観光対象になっているサガリバナだって、石垣島にやってきた帰化植物だろう。

その今経過中の混沌が面白い。シゲミ観察のマニアがいれば、間違いなく多様性のあるIshigakiシゲミに、強烈に惹きつけられると思う。園芸店の廃墟なのかと思うほどだ。なるほどIshigaki合衆国である。人間と自然が織りなす、複雑化の世界観を表現している。

シゲミがそこで暮らす人たちを現わしている。石垣島に暮らす人は南洋の鮮やかな、見たこともない艶やかな花が好みに違いない。たぶんアメリカハマグルマもそうして、どこかの園芸店から自然界に流れ出たものかも知れない。

太古の自然に価値を見る人は、石垣島の固有種が危ういと考えている。どこのあたりの時代に境を付けるかは別にして、固有種の方が、バイオマス的に言えば容量が少ないに違いない。このある意味乱れきった自然を、困ったものだと行ってももう限界を超えている。

あの、歌にまで歌われるデェイゴの花は沖縄県の県の花になっている。しかし、私が見るところどう考えても、帰化植物である。大体に自然の中にあると言うより、自然の岸辺にある。学校や病院や公園にある。すごい大木になるが、あれもマメ科植物である。

大木に大きな赤い花が咲くから奇異な印象が慣れないものにはある。しかし、沖縄の県の木なのだから、沖縄の人にしてみればふるさとを表す木なのだろう。熱帯の強い暑さからか、妖艶な感じがする。素晴しい樹木だ。

ドラセナとか、ポトスとか、パキラまで、シゲミには存在する。カラテアと言う葉の中に葉を描いたような環境植物があるが、あれを見つけたときには思わず笑ってしまった。子供の頃、青山の第一園芸で買って貰い、とても大事に育てていた植物なのだ。

小田原のホームセンターで売られていた、ウオーターレタス、あるいはぼたん浮き草。なかなかかわいらしい植物でかなり人気があったが、今は特定外来植物である。石垣島では田んぼで増殖して販売されている方がおられたが、今では止められた。

簡単に言えば、石垣島のシゲミは特定外来植物の温床になっている。その侵略的生物の勢いが、牧草とせめぎ合っている。牧草の方はその勢い繁殖力も素晴しいもので、だから牧草に選ばれたわけだが、その勢いは特定外来植物に勝るとも劣らない。

牧草に覆われて、枯れて行く植物は良く目にする。その枯れて行く植物が特定外来植物であると言うことも普通だ。植物のその生息域の確保の戦いはエネルギーに満ちている。だから、その緑の混沌の中に、目根も鮮やかな大輪の花があると、ああ石垣島だと思う。

花木も全く負けていないのだ。見事なものである。この混沌と艶やかさが混合されながら、シゲミを構成する。このエネルギーの強さがシゲミ8を表している。いつの間にかシゲミを描いている。描かずにはいられないことになった。

これほど力に満ちたものはないと思うようになった。西表島のシゲミ10はちょっと描く体力がないが、石垣島のシゲミは描けば描くほど面白くなる。淀井彩子さんという絵描きの「庭の景色」というシリーズが面白かったのだが、石垣島のシゲミシリーズもなかなかだと思う。

淀井さんの庭の絵がすぐれた情景画のようなものであるなら、石垣のシゲミの絵は自然を抽象として表している。その自然と人間がせめぎ合うエネルギーがそのまま抽象の波になって伝わってくる。説明抜きの自然である。木はこうあるべき、花はこうあるべき、そんな約束事が通用しない世界だ。

自然の力をその境界線で受け止めているのがシゲミ。瀬戸際の自然。昔から耕作放棄地の絵を描いてきた。人間が自然に残した人為を、自然に戻して行く力を描きたかった。人間を飲み込んで行く力が自然にはある。人間がどれほど愚かであっても、自然の持つ時間軸で人間を覆い尽くす日が来る。

この自然力を描こうとしている。その自然力に反応してきた。風景画というような、人間の上から目線とは全く違う、下の方が自然を拝ませていただく絵だ。帰化植物だとか、渡来植物とか、外来植物とか、自然を色分けしたところで、空しいことである。

人間という、自然からしてみれば最も違和感のある奴らが何を言うかである。病原菌や、ウイルスよりもはるかに問題生物人類のどうしようもなさ。ルネッサンスが人文復古主義であるなら、現代のコンピュター革命期は、むしろ自然復古期ではないか。

余りに背伸びした人間を自然が淘汰しようとしている。無理もないことだ。増長満の人間の終焉が近づいている姿を、自然の瀬戸際のシゲミは現わしているのかも知れない。だからシゲミは混沌であり、変化をし続けている。美の極致なのかも知れない。

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