動禅体操を楽しめる

   



  動禅体操を続けている。石垣島に来て太極拳を始めたのだから、4年目に入っていると言うことになる。最初はスワイショウ、八段錦、太極拳を教わりながら、見たとおりやると言うことだった。一年ぐらいが経過した頃から徐々に自分流なものに変化した。

 今は太極拳をやると言うよりも動禅を行うという気持ちでやっている。日本では道元禅師が提唱した座禅という物がある。曹洞宗の僧侶であるから、寺院で修行をしたこともある。家で座禅を続けたこともある。しかし、私には座禅を続けることは出来ない出来た。

 このまま座禅をやれないままで終わるのかと思っていたのだが、考えを変えて、動禅をやることにした。動禅という物があったはずだと考えるようになった。立禅という物はわずかだが今も行われている。日本立禅会という物があるようだ。

 そこでやられている立禅を動画で見せていただくと、動禅とはほとんど関係がない動きのようだ。立禅はインドでヨガの一つ形として行われていた物だと考えている。達磨大師やその他のインドのヨガの行者が中国に仏教と共に伝えた物だと考えて良いだろう。

 達磨大師は座禅を仏教の修行法として座禅宗と呼ばれるような仏教の宗派を作る。座禅宗は仏教ではあるが、老荘思想の影響を受けて、中国的な禅宗という物に変わって行く。それは1600年ぐらい前の時代である。日本には仏教はその少し前に伝わっている。その後いまから1000年ほど前に、道元禅師が中国から日本に禅宗を伝えることになる。

 道元禅師は只管打坐を教義として他のことは行わない。たぶん、道元禅師が中国に行かれた時代にはまだ、立禅も動禅もあったと思われる。ただその時代には座禅を強調したこともあり、他の禅の修行法は排除されたような気がする。道元禅師にその意図があったのかは分からないが、1000年前の中国では修行法として、様々な物が混在していたかも知れない。

 私は山梨県の藤垈にある小さな曹洞宗の寺院、向昌院で生まれた。祖父は黒川賢宗という僧侶で、私が15歳の時に得度した師匠である。祖父は幕府の通弁であった父を幼少期に失い、寺院に預けられ育った。若い時代は北海道に宣教師として渡るが、身体を壊し本山に戻り、後に向昌院の住職になる。

 向昌院は自給自足の暮らしをしていた。そこで私は生まれたので、自給自足をする僧侶の生き方は見て学んだ。祖父は毎朝お勤めと言うことで勤行は行っていたが、僧侶らしい人ではなかった。座禅をしたのは見たことがなかった。

 座禅を始めたのは世田谷学園の中学に入学したときである。当時の世田谷学園にはお寺のような禅堂が有り、そこで早朝座禅が行われていた。そこで三沢智雄先生にお会いし、僧侶という物はすごいと言うことを感じた。そのことがあって、15歳の時に自分の意志で得度をすることにした。

 座禅修行は自分なりに本気で取り組んだのだが、何度も挫折した。只管打坐という物が、一切を排除するということで、私にはどうしてもそれが受け入れられなかった。絵を描きたいと言う思いと座禅以外のことをやってはならないということで、耐えられなかった。

 座禅をやることは、山北時代も、小田原時代も、繰り返してきたのだが、やりきれることはなかった。石垣に移り、どのみち座禅を継続できないのであれば、自分のやれる形を考えてみよう言う考えになった。それが毎朝行う太極拳を動禅という形で考えてみようと思うようにいつの間にかなった。

 動禅は徐々に整理されてきていまは、スワイショウ7分。八段錦12分。立禅12分か18分。24式太極拳12分。と言うことになってきた。45分から50分ぐらいのものである。よく続いている。続いているのは前向き気持ちで取り組める物だからだ。

 歳をとり健康が気になるために、健康体操が必要と言うことがある。毎日動禅を行うことで、健康が維持されているという実感がある。これが継続の一番の原因である。そして、動禅を行うときの心境が絵を描くときの心境に重なってきたと言うことがある。

 絵は描きたいだけ描いているわけだが、その時の気持ちは、動禅を毎朝行うことで、余計なことは考えなくなっている。静かに落ち着いて絵を描くことに専念している。いい絵を描こうというような気持ちがなくなり、ただ絵を描くことになる。

 気持ちよく絵が描けるのは動禅によると言うことが分かる。そこで動禅が継続されているのだと思う。動禅が出来るのは座禅ほど動禅は辛い修行では無いからである。座禅は足がいたいということもあるが、50分から動かないと言うことも辛い。身体にも悪いという意識がある。

 動禅はすべて目をつぶってやっている。パラリンピックを見てそうかと思いついた。眼を閉じて行うことで、意識が集中できる。動いているから寝てしまうこともない。最初はふらつきすぎたが、今は何とか眼を閉じてそれなりには出来るようになった。足を上げて静止するという当たりは今もふらついてしまい出来ない。

 背伸び禅が18分は背伸びをして立っているだけである。これも最初は出来なかったが、今は何とか出来る。大抵は12分にしている。余裕があるときだけ、18分にする。背伸び禅が一番座禅に近いものになる。もちろんまるで違うわけだが、私としては座禅のつもりでやっている。

 背伸び姿勢で立っているとよほど落ち着いていなければ揺らいで動いていてしまう。安定した気持ちで、静かな心境に集中して行くことが出来る。気持ちが動くと姿勢も動いてしまう。おかしな背伸び姿勢だが、私のような安定しない人間が気持ちを集中して行くのに丁度良い物だ。

 背伸びの姿勢は体操としては太ももと袋はぎの筋肉を鍛える。ただ背伸びをしているだけでそれなりの、筋力トレーニングにも成っている。ここが何でも一挙両得を考える物として、都合の良い禅的体操と言うことになる。

 おかしな動禅ではあるが、継続することができると言うことが一番有り難い。その上にさすがに3年を超えて毎朝やっていると、何か恩恵を感じるようにも成ってきている。気持ちが安定してきた気がする。前向きに日々を生きることに成っている。

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