絵にサインを入れないことにした。

   


 5月8日の田んぼの様子。

 絵にサインは長らく入れていない。絵の出来上がりにサインが邪魔になるので、入れにくくなった。どう考えてもサインは絵と関係がない邪魔なものに見えるものだ。サインを入れて絵が出来上がるという意見も聞いたことがある。春日部先生はサインを入れる場所も考えて描いていると言われていた。

 それは絵にサインを入れて、絵が商品になると言うことなのだろう。なおさら私には絵にサインを入れる意味が無い。商品を描いているわけでは無いし、そもそも絵における著作権も無いと考えている。絵は出来上がれば誰のものでもないほうがいい。

 サインが絵の邪魔になる。絵の裏には描いた日時と名前は書いている。描いた者の記録である。表面では絵の邪魔になるので書けない。署名というような意味は絵とは関係がないものだ。異物が入ると違和感が出てしまう。いつの間にかサインは入れられない気持ちになった。

 絵に対して著作権を主張しない。誰がどう使おうと構わない。描いた作品の一覧表だけは記録しようと考え、ブログやホームページに写真と題名と完成年月は書き入れてある。二つにあれば消えにくいからである。いつか作品一覧をディスクに記録しようと思っている。何か意味があるかは分からない。

 なおさら画面に私の名前が書かれているのはどうもそぐわない。もちろん勝手に私の絵に自分の名前を書き入れられるのは困るが。だれかが印刷に使うとか、真似るというような場合に私の名前はない方が良い。まあそういうことも無いとは思うが。

 商品としての絵画を描いているわけでは無いという意識を明確にするためには、名前を書かないと言うことになる。画面の裏側には名前と制作年月日は書き入れている。画面の表面に絵とは別なものを書き入れるというのは悪趣味では無いだろうか。中国がでは漢詩が入っていたり、絵の感想が書かれていたりする。

 画賛のようなものや、補償書のようなものを書き入れる習慣が中国画にはある。例えば、何時魏の皇帝〇〇がこの絵を見た。というようなことを画面に書き入れて箔を付けるのだ。中国は大体のことが商業的価値で決まる。価値が上がるのであれば、絵の実体などどうでも良いことなのだ。

 余り色々の肩書き入れるので、空など文字で一杯になっている絵がある。画面がよく見えないほどの絵すらある。何という馬鹿げたことであるか。それが作品の価値を上げるための手段と言うことになると、作品とは何なのかと思うと情けないことだと思う。

 正直サインのある絵を恥ずかしいと感じるように成っている。何故だろうかと思うが、絵は自分そのものなのに、今更名前を重ねて入れる行為が蛇足そのもので画面に違和感を与えると思えるのかもしれない。実際は偉そうにサインをするという感じが嫌なのだ。

 雪舟が雪舟と書き入れた絵もあるが、名前の書かれていない絵のほうが多いだろう。狩野探幽が後に極め書きでこの絵は雪舟であると書いたものもある。絵画と作者と繋がりを求めているのは見る側の問題である。絵画は絵画として独立しているものであり、作者とは別物であるはずだ。

 雪舟は何時の時代にも人気画家であった。その人気画家が署名を入れない。仕方がないので、探幽が雪舟の絵だと極め書きを短冊にして付けた。探幽も雪舟の絵を良いと考えていたようだ。そもそも偽物であるのが分からないほど良いなら、それでいいではないかと思う。

 サインが無ければ絵を見ることができないのであれば、あるいは、保証書つきでなければ有り難くないとすれば、それは見る目が無いと言うことに過ぎない。まあほとんどの絵がその程度のものではある。サインだけが価値という絵も多いのだ。ファーンにとってのタレントの絵というのはそ言うことだろう。

 モナリザはサインが無い。ダビンチの絵にはそもそもサインは無い。近代絵画の卑しさがサインというものに繋がっているのだろう。ダビンチは依頼されて描いているので、サインなど無くても良いほどの絵描きだったのだ。雪舟も同じだ。お抱え絵師のようなものか。

 大分意味は違うし、今更であるが、サインを入れないことにした。意識してサインを入れないことにした。いままでもほとんどの絵にサインを入れていないけれど、それはなんとなくであった。今度からは意識して絵にはサインは入れない。

 サインのことなどどちらでも良いようなことであるが、絵に向かい合うためには、気持ちの上ではそれなりに重要なことなのかと思える。これからはサインを入れないことに意識を持ちたい。私絵画はサインなどいらないものだと言うことにする。

 とここまで考えていたら、最近はやりのバンクシーはサインどころではない。その辺の壁に落書きして逃げて行くわけだ。あの、オークション会場で落札された途端にスレッダーで切り刻まれた絵は圧巻だった。パフォーマンスとしての絵画否定はインパクトがあった。

 しかし、バンクシーのパフォーマンスはともかく描かれる絵はつまらない。絵と言うより本当の落書きのようなものだ。バンクシーを真似た絵が日本にもある。町で落書きされた図柄がバンクシーのようだというのだ。絵としては誰でも描けるようなものだから、特定がなかなか出来ない。意識してそうしているという辺りがバンクシーの狙いなのだろう。

 なかなかのやり口である。商品絵画時代をおちょくっているのだろうが、そのバンクシーの作品が、意に反して商品になってしまうのだから、商品主義と言うものは中々手強いものだ。商品を否定しようとした絵画まで、その否定の行為の価値付けをしている。

 私の無署名とはまったく意味が違う。私は絵がまさに自分そのものだから、いまさらそれに名前を入れると言うことが、2重で無意味だと言うことになる。描くことに重きを置いている。描いた後の作品は、自分と世界の中間に位置する。

 中間に浮いているものに、私の署名はいらない。私が描いたという以上に私であるはずだ。そうだというのではない。そうならなければならないと考えていると言うことだ。目標としては絵が自分そのものであるというのに、その絵に名前はおかしいということだ。
 
 絵よりも自分のことなのだろう。自分がどれほど日々を深く生きているかと言うことになる。自分に向かい今をひたすらに生きる。絵が自分の奥の奥から出てきたものである。絵を描くことは自分への修行の道である。そうであればやはり、署名はおかしい。

Related Images:

おすすめ記事

 - 水彩画