「ちむどんどん」は沖縄を誤解させる。

ミズオオバコの花。
NHKのドラマ「ちむどんどん」が始まっている。山原の家族の話だ。沖縄アメリカ占領解放50周年記念番組である。あれから50年なのかと思うと、なんだか挫折の50周年である。このドラマはそのことを避けて作られている。
今回のドラマの一番の問題点は4人に一人が殺されたというほどの悲惨な地上戦があったことを見ないようにしている。それから10年後の話として始まる。米軍占領下の沖縄。戦争など無かったかのようなやんばるの姿だ。米軍はどこにいるのだ。
占領軍である米軍の存在が見えてこない。やんばるには広大な米軍の演習場がある。沖縄の戦後の歴史を踏まえていない点は大きな問題だ。本土の人間によって、ゆがめられた沖縄が表現されることには耐えがたいものがある。この脚本家の罪は重い。
日に日にこの脳天気さによって、沖縄が誤解されていくのかと思うと情けない気持ちになる。私は朝のテレビ小説はファーンである。いつも見てきた。しかし、さすがに今回のものは許しがたい形で沖縄が表現されている。辛い。NHKは会長がおかしいので、とんでもないことになっているようだ。
沖縄返還を果たす事が、何よりもの優先事項だ。それが当たり前すぎる人間の気持ちだった。共産党は日本本全体が沖縄化するから、沖縄返還反対と主張した。沖縄にあった核弾頭が、日本に持ち込まれることは無かった。日本国民は沖縄に米軍基地を押しつけただけだった。
こうした沖縄の現実を見て見ぬ振りをしているのが、内地の人間である。沖縄に防人を任せればそれで自分たちの安全が守れると考えている。沖縄に敵基地先制攻撃ミサイル基地を並べようとしている。台湾有事という沖縄の置かれた緊急事態の場面で、何という朝のテレビ小説か。
共産党は沖縄で暮らしている人間の実情を知らないから、日本全体が沖縄になるから、返還反対など言えたのだ。もし沖縄の実情を知っていて、沖縄返還反対を主張したのであれば、沖縄で暮らす人々を見捨てたほうが良いと考えたのだ。共産党はもう忘れたかのようだ。
NHKが政府を忖度して、とんでもない脚本家を沖縄返還50周年番組に選んだのだ。沖縄の置かれた現実をここまで無視して良くも「ちむどんどん」などと言えるものだ。そしてもっと怖いことは、沖縄でもその問題点の指摘がほとんど行われていないことだ。
高校生の頃通っていた世田谷学園には2人の沖縄出身の先生がいて、沖縄の米軍の実情をきかせてくれた。そして、私の叔父笹村草家人はまだ占領下の首里城にあった、琉球大学に東京芸大から派遣されていた。琉球大学の美術課の基礎を作った一人だと思う。
叔父は帰る度に沖縄の現状を実感を持って教えてくれた。その結果占領下の沖縄の解放は一日も早く行うことが日本人の務めだと当たり前に考えるようになった。沖縄の現実を忘れて何が高度成長と浮かれているのかと思うようになった。
沖縄の家族の物語が、いかにも東京で暮らしている脚本家のいかにもという沖縄の家族の見方が、安易で類型的すぎないか。元気だけど働かないで、あぶく銭を求めて騙されるニィニィ。限りなく優しいアンマー。そして元気でバイタリティーに溢れる主人公の少女。小浜島の物語、ちゅらさんと競べても今回はちゃちだ。
この定番の沖縄の家族像にぶら下がって脚本を書いている。たぶんこの脚本家はNHK会長と政府を忖度しているのだろう。沖縄にあった深刻な問題は上手く素通りして触れませんという姿勢が見え見えだ。人間として恥ずかしくないのだろうか。ストーリーも実に安易な展開。
沖縄の脚本家に書かせなかったNHKのやり方がよく分かる。沖縄の実像が表われては困るのだ。やんばるを美しい南の楽園としてみせればそれで良しなのだ。やんばるに米軍の飛行機は墜落している。朝のテレビ小説なのだから、仕方がないとは言え、さすがに今回のドラマはひどすぎる。
アンマーが無理をして肉体労働に行く先は進駐軍の道路建設の可能性が高い。何故そういう実際が見えるように描かないのか。小学校で行われていた、沖縄方言禁止のことなどどこにも出てこない。琉球王朝の士族が明治政府の方針でやんばるに移住させられて入植したことなど、触れても良いのではないか。
この年代の話であれば、電灯や水道が来た日だって出てきても良い。仲間さんのアンマーは芭蕉布を紡いでいる。それは美しい芭蕉布の着物を着ている。喜如嘉のものだろうか。素晴らしい着物だ。沖縄の織物は実に素晴らしい。そういうことだけは触れている。
しかし、あれだけの肉体労働の中、芭蕉布を織る余裕は無いだろう。芭蕉布はさすがに着ていないだろう。果たして長女が短大に行くだろうかと思う。あれほど貧しければ、中学を卒業して就職したはずだ。それが普通だった時代なのだ。
沖縄が返還された年に高校生だったとすれば、私より少し下の年代である。しかし、石垣に来て直接開拓移民だった方から話を聞かせていただくと、その暮らしの厳しかったことが、痛いような感覚で伝わってくる。石垣島ではパインに救われたのだそうだ。
パインを台湾の人達が石垣に持ち込んで栽培を始めた。そのパインが石垣の戦後復興の柱になったそうだ。パインの缶詰工場が石垣に8つも出来たのだそうだ。やんばるにはやんばるの物語があるはずだ。そうした物語を掘り起こすのが、脚本家の仕事だ。
世界遺産になったやんばるの森は、米軍の75000平方キロの北部演習場の一部を返還して貰い、一つながりに出来たので再提出で認定された。このドラマの舞台になる頃、米軍はベトナム戦争の演習地として利用していた。すさまじい騒音と、激しい実弾訓練があり、ヘリコプターの墜落事故などがあった時代だ。
アンマーが肉体労働に明け暮れる場所は米軍関係の工事と考えることが自然である。ニィニィや主人公の少女が職場を探すなら米軍関係が当たり前だろう。なぜか、その陰も出てこない。ベトナムで死んだ米兵の遺体をきれいにする仕事をしていた、絵描きの友人がいる。
そもそも、何故それほど貧困な家庭の子供が、短大に行くはずがない。高校も行かないのが普通だろう。沖縄の現実を一切無視して、空想で美しいやんばる物語を作ることはある意味犯罪行為だ。この連続テレビ小説は報道番組の偏向以上の問題を生み出すと思う。
ドラマだから仕方がないとは言えない。それほど大変な状況が今沖縄にはあるのだ。石垣島には中国にミサイルを先制攻撃で撃ち込むための基地を建設している。市長の国防という国の専権事項には意見が言えないという暴論によって、住民無視のままミサイル基地建設が進んでいる。
こういう問題を直接取り上げろというのではない。ただ、何も無いかのように美しい自然を取り上げるだけでは終わらない、深刻な問題がやんばるにもあると言うことを自覚すべきだ。羽原大介と言う人が脚本を書いている。