三線の3ヶ月目
三線は毎日続けている。今も左手の指先がしびれている。進歩はある。とてもゆっくりだが、一昨日より、昨日の方が少しましになったような気がする程度には、進んでいる。この進歩の速度では、手先が固くなって、三線が弾けなくなる前に、何とか物になるのか競争の様な遅々としたものだ。課題は、唄三線ということが出てきた。沖縄風の音が鳴らせればいいと考えて三線を始めた。所が三線は唄の伴奏楽器だから、演奏だけでなく唄を歌わなければダメだと、酒匂三線クラブの先輩に言われた。確かに、津軽三味線ではない。三線と言えば歌だ。唄を歌うつもりはなかったのだが、いたしかたなく唄って弾いている。これは新しい大問題だ。沖縄の言葉は理解できない。意味不明の言葉をただ覚えて、声に出して、おぼつかない三線を鳴らす。困難度がさらに上がった。しかし、工工四も何とか覚えられたのだから、そのうち何とかなると思って、外国語の唄を歌うような感じでやっている。
65歳の手習いでそれなりのものになるのかと言えば、3ヶ月目でもしかしたら何とか成りそうな雰囲気まで来た。人に聞かせられる所まで行けるかはまだおぼつかないが、自分なりに納得ゆく所までは行けそうな気がしてきている。まだ新しい事を始められる自分で良かったと思っている。気持ちのひつ濃さは昔とさして変わらない。記憶力は全く落ちている。何しろまだ、暗譜出来た曲は一曲もない。覚えられた歌詞も一曲もない。だからあくまで楽譜や歌詞を見てやっている。小学生の昔のハーモニカやたて笛をやった頃を思い出すと、全く今の記憶力はひどいものだ。小学生のころは意識しなくても、いつの間にか覚えていたものだ。それでも楽譜を見れば何とかそれなりに鳴らせるのだから、楽しい事は楽しい。記憶している歌を、楽譜を見ないで鳴らす練習をした方がいいのかと最近思っている。
唄を歌う事は好きな方なのだろう。子供のころから、家族で唄を歌う事が良くあった。三線をやろうと言うのはそういう所から来ているのかもしれない。声を出すこと自体が好きだ。声を出す事は健康にいいと思っている。肺が弱く、色々病気をしたので、なおさら声を出す事は子供のころから意識して行ってきた。毎朝お経を読んでいた時期もあった。その為に下宿でえらく不審に見られていた。あれは金沢の卯辰山の上に暮らしていたころのことだ。不思議な下宿だった。あんな山の上に暮らして、学校まで歩いて通おうと思う人が他にもいた。海の方まで見えるとても良い場所ではあるが、あの何でもない山の中に下宿を作った人に驚く。何故かあの山の上の下宿ではお教が読みたくなったのだ。お教は声に出さなければならないので、随分大きな声を出して、周りに迷惑をかけたらしい。しかし、直接苦情は言われなかったのは、今思えば不気味だったからに違いない。
お経も意味も分からず、が鳴っていたのだが、三線の沖縄の唄というのも意味不明だ。フランス語の唄を歌うと言う事とも同じだ。意味の方はなんとなくでいい訳だ。今度沖縄に三線を持って出かけるつもりだ。当たり前だが、演奏会に出る訳ではない。持ってゆくという事だけで、沖縄気分が高まる。いつか上手になり、沖縄で弾くくらいになりたいぐらいの気持ちはあるが、それが無理な事は分かっている。三線を作った作者の所をお尋ねする事になっているのだ。調整もお願いできる事になっている。照屋さんと言われる方なのだが、沖縄の人らしい素晴らしい方である。以前伺った時に、何故三線を持って来なかった。調整してやるのにと言われたのだ。少し弾けるようになったらと思っていたが、まだそこまでにはなれないが伺う事にした。鳴らしてみろと言われたどうしよう。