才能と夢
夢を持ってやってきた。今でも夢を抱いて暮らしている。自分がやりたいようにやるということは貫いてこれた。夢をもつことは自分勝手なものだし、才能があるかないかということになれば、他と比較することになる。昨日引退したヤクルトの宮本選手は「野球を楽しいと思ってやったことは一度もないと、練習をもうやらないでいいと思うとホッとする。」引退のあいさつをしていた。何か、とても寂しい感じがした。プロ野球の選手なら、ファーンに対して野球を、我慢して努力していたなどいうべきでない。努力は人に見せてはならない。逆説であるにしても、好きではなかったなどと挨拶はしない方がいい。たしかに草野球をやることのほうが、楽しくて生きがいになるのかもしれない。違いは収入があるかないかであるとすれば、お金のために我慢して生きる人生など、くだらないではないか。ゴッホもセザンヌも評価されない絵描きであったが、あの素晴らしい絵を残してくれた。
才能があるということは、好きなことを見つけられるかだろう。好きなことが見つかれば、後は何とでもやりぬける。何故、好きなことを貫けないかと言えば、好きさ加減がその程度であるからだとおもってきた。ではなぜ好きであることが強くなるのかと言えば、始めてみるからである。好きか嫌いかなどやってみなければわからない。やって見れるかどうかには、3つの壁がある。1、食べれないかもしれない不安。2、才能がないかもしれない不安。3、好きかどうかがよくわからない不安。この3つの不安を取り除くことが、好きなことをやって生きてゆけるかになる。お前なんかには無理だよ。食べていけるわけがないよ。こういう止める気持ちが働く。抑性が働いて普通だ。自分には才能がないかもしれないという気持ちは、当たり前のものだ。生きてゆくことに他人と比較する才能など関係がない。結果から判断しないことだ。一番困るのは、好きなのかどうかがはっきりしないことだ。好きかどうかは、やってみなければわからない。宮本選手の本音は好きだったんだと思う。好きであっても練習は辛いということ。
どんなことでも食べれないということはない。野球が好きであるとしても、普通はプロ野球には入れない。絵が好きでも絵が売れて食べていけるというようなことはない。でも、草野球は出来るし、絵を描き続けるぐらいのことならできる。好きであれば、絵を売って暮らそうと、他の何かをしながら絵を描くのであるにしても、全く同じである。宮本選手より、草野球の選手の方が楽しいのかもしれないぐらいだ。収入があるとかないとかで、好きなことを止めるぐらいの好きさ加減では、どうせダメということだ。本当に好きではないから、食べれないかもしれないということは、自分の日々を、確実に生きるということの大切さから見れば、小さいなことだ。大抵の人に、いわゆる天才の才能などない。誰しもモーツアルトではないのだ。
一番困るのが、好きなのかどうかがわからないということなのだ。好きなことを見つけられない。これも普通のことだ。私自身何がやりたいのか、いまでも自問している。絵をやる以外ないという現実もある。絵を描いていれば安心ということもある。手ごたえのようなものもいくらかある。好きなことを見つけるには、好きかもしれないことをやってみるほかない。やりもしない内に、好きなのかは分からない。やらない内から、才能など考えてみても始まらない。たまたまやり始めたことがどんどん面白くなるというのが普通だろう。つまり、大抵のことはやりつくせば面白いのだ。自分に合うかどうかもあるが、合わないことを無理に続けることなど出来ないのだから、続けられるということは、合っているということだろう。問題は他と比較して、才能がないと思い込むことだ。そういうことは自分の人生に全く関係がない。私は後20年、絵を描いてどこまで進めるのかが楽しみで、生きている。