15回水彩人展の絵について
水彩人展は、昨日終了した。充実したとても楽しい展覧会だった。それぞれが言いたい放題言い合うことになっている会だから、私もずいぶん迷惑をかけたのかもしれないと思う。嫌な思いもさせたのだろう。今回もとても良い指摘をいただいた。面と線の関係について、サムホールがろうの方の意見が、ああそういうことかと思い当たることがあった。線に引きづられること。面で構成すること。そういうことが、私の見るということと、とても関係していると感じた。絵を描く目で見るということは、視覚的にみる。5体を通して感じる。それを頭があれこれ考えてよりわけながら見ている。それを画面の上で、どのように作り上げればいいか、線と面と色で、新たに作り出してゆく作業。線に引きづられる感じは、自分の感情的な思いを、画面に乗せようとしている。自分の絵を進めてゆく上で、重要な機会になっている。
水彩人同人18名の絵が水彩画にふさわしいものと考えていたが、そうとも言えないなと今回の絵を見ながら、今は考えている。水彩画の限界に位置するような作品もある。しかし、この限界に位置するようなものも水彩画の一部なのかもしれない、そう思いながら考えてみている。水彩という手法の限界を排除することはないが、水彩という材料を生かした制作を考えてみる必要はあると思っている。水彩の中に異質なものがあると、悪い形で存在が目立つということがある。目立ちたいから、水彩らしくないことをあえて特徴とする、という精神が現われてくる場合すらある。水彩人同人には、約束がある。そのことは水彩人の宣言文にある。そして、絵を見て、感じたことは率直に口にする。たとえ言いにくいことでも、無理をしても話す。同人には互いにそれが出来る、人間的信頼関係がある。
感想というか、会場でのメモである。
昆野さんの絵3点は水彩の色使い深さが、情感の豊かさの表現になっている。水彩の色彩の美しというのは、こういうものだろう。とても学ぶものがあった。
相川さんの絵も、水彩の色の美しさに目を見張った。このように薄い塗で、絵画になっている。この薄い色調を支えているもの、精神的な緊張感のようなものを画面に感じた。
畔上さんの抽象表現は、水彩の抽象らしい作品で、柔らかな線の集積が絵になってゆく過程を見せている。線が集まり空間を作り出していく。その純粋化した仕事。絵はこういうものなのかもしれないと思った。この姿勢には教えられる。
井上澄子さんの2点は、今回の展覧会で最も注目された絵だろう。10号ぐらいの半具象の絵なのだが、水彩画が大きさとは全く関係がないということが良くわかる。あの船の赤の色は今も脳裏に浮かんでくる。その時に、画面の大きさなど全く消えている。大きな色面の使い方と、抑制的な気持と。絵の精神がしっかりと表現されている。
宇都宮さんの絵は不思議な空気がある。この人は4点の絵を出品して、この1点が飾られたのだが、2点を選択できなかったのは、選ぶ人たちの力不足である。自分の世界の色を持っているということがすごい。水彩人の仲間としては、はじめての登場で、こういう素晴らしい仲間が出してくれるというところに、公募展化して開催した良さがある。
金田美智子さんの「アマリリス」も頭に残っている。色彩というものは一番心に残る。アマリリスの優しい色調は忘れ難い。素直な当たり前の表現の中に、豊かなものが潜んでいる。
斎藤さん「まどろみ」の人物も魅力がある。水彩で人物を描くことはとても難しいことだが。実に良く描けている。体重を感じさせる。こんな技量がうらやましい。小さな画面で、のびのびとした絵画世界を表している。
関さんの風景2点はどちらも、世界を持っている。押しつけがましくなく。感じて描いている。感じる力がすごい。又視点がいい。この場所を描こうという意識に魅力を感じた。空間を見る目が世界観につながってゆく、過程を見せてもらえた。私にとっては一番の勉強になる絵だった。こういう絵と並べることが出来るから、展覧会はやる必要がある。
高木さんの「夏の訪れ」色彩も、深い味わいがある。こんなに柔らかで、澄んでいて、のびのびと豊か。水彩以外では絶対に不可能な表現である。私絵画の方向を示しているのかもしれない。
伊達さんの「五月の風」の白の美しさも参考になる。紙の白と、水彩の白。実にこのハーモニーが素晴らしい。画面全体を表現として把握している。
松波さんはいつも実験的である。消して、消して、残りきる痕跡を絵とすると言っていた。残るもの。痕跡。消せない記憶のようなものか。これも普通の水彩の描法ではない。昔から博士というあだ名だったそうだ。今回、松波さんが水彩人の講習会を担当した。松波さんの話は、なかなか良かった。違うことを結び付けて、その間に存在する言葉にしにくいことを、上手く話していた。つまり詩の様な水彩の講義である。あの話のような、絵になればすごいと思う。話なしのような絵を見たいものだ。
青木さんや、郡司さん、松田さんの抽象の世界は精神的な世界を強く感じる。疋田さんもここに割り込んできている。最近の水彩人の動き出している傾向かもしれない。こうした抽象的方法は、各人の心の有様を直接に伝えてくるような世界で、水彩的表現の得意とするところと言えるのかもしれない。抽象ではないと松田さんは主張しているが、見る側から言えば具象的形の意味は、かなり小さくなっている。水墨的な線とか、にじみの意味も抽象に行かされている。私絵画の一つの入り口の世だ。その意味では抽象というくくり方が悪いのであり、新しい言葉を考えるしかないのだろう。
磯貝さん、橘さん、佐瀬さん、大原さん、三橋さん、栗原さん、この6人の絵が当初目指した水彩人の主張する、宣言文にある、素朴に内に向かって描く水彩画に向かっている。技法的にも、絵画性に置いても、水彩の持つ特徴を最も生かそうとして制作をしている。
特に栗原さんの作品は、水彩人の水彩画と言い切れると思う。画格が高いというのは栗原さんの絵だ。実にうらやましい。別格だと思う。
入江さんの絵は油彩画のようである。何故水彩画でなければならないのだろうか。これも不思議な気がする。しかし、いわゆる水彩画家として評価されている中西利雄の作品にもこういう調子に近いものがある。日本独特の水彩表現が潜んでいるのかもしれない。それを明るい色調でやろうというところに、入江さんらしい試みがあるのだろう。黒をあえて使わないのかもしれないが、このあたりが、気になる。
北野さんの絵は絵本的な世界を感じさせる。面白い調子や暗示的なというか、寓話的な世界の匂いで絵を作ろうとしている。文学的であると言う事、詩的であること。そういうことは悪いことではないし、これも水彩の仕事の重要なところだ。どう展開して行くのだろうか。