原発動ないと集団自殺

   

民主党の仙石氏の発言である。なるほどこういう考えの人が、民主党の中核の国会議員なのだ。原発が無ければやって行けない経済の状況と認識しているのだ。日本経済は原発が無ければ倒産する。それは、日本人が集団自殺する事だと。すごい認識である。集団自殺するぐらいなら、原発を運転して、次の事故まで生き延びた方がましである、と主張しているのだろう。贅沢に慣れてしまい、貧乏生活をする位なら、死んだ方がましだという、考えなのだろう。しかし、自殺する人の数は、原発を運転していた頃の日本が多かった。どうしても1万人を越えていた。原発があれば確かに、随分不便な所でも、冷たいコカコーラ―が買える。ペプシのネクストが買えるかもしれない。確かにそういうものがいつでも買えないような社会になる位なら、死んだ方がましだという人もいるかもしれない。わたしなら、沢からの冷たい絞り水が飲める国の方が幸せだと思う。

人工的な贅沢に慣れてしまった人間が、貧乏生活を楽しむことは難しいかもしれない。しかし、自給生活を始めてみると、1個のじゃがいもでも充分美味しい。幸せだとまで感じる事が出来る。スーパーで買ったじゃがいもを山ほど食べてもこんな嬉しさはない。5つ星のレストランの豪華料理以上の満足感がじゃがいもにある。この幸せを知ることが出来ただけでも、生きる喜びである。それが、毎日のお米が作れるのだ。食べ物の自給は1日1時間の労働で可能なのだ。何も集団自殺する必要などまったくない。こんな簡単なことが、贅沢の中に暮らしている人には、見えなくなる。そう思い込ませないと、資本主義社会が回らないという、洗脳の世界だ。美味ししい食べ物だけでない。絵だって同じだと思う。マチスの絵を手元に置いて、自分の描くものと比べてみたいと思う。それはすごい贅沢だけど、そう言う絵が美術館にあり、生涯に何度か見れば十分である。

逆説的な言い方だが、仙石氏は原発がなくても大丈夫な人ではないかと思う。仙石氏が主張しているのは、日本人の全体のあり方を見ると垂れ流し生活に浸り、脆弱になっており。少し辛ければ、自殺を考えるような日本人が見えてくるのだろう。これが国を運営している人の実感に成っているのではないか。確かに何かとそんな反応が見られる。だから、原発を止めるという事自体が経済の自殺行為だ。これが本当は言いたかったことだろう。それは原発は安い電力を生み出すという、核廃棄物の処理を考えない、目先の経済論である。将来核廃棄物をどう管理するか。この方法とコストが見えないにもかかわらず、当面は安いということに追われているのが、今の日本の資本主義を支える企業理念ということになる。日本の電力が高いから、韓国に移ろうというような話が又出て来る。そんな風に利益だけを考えるものは早くそうしてもらいたい。

大飯原発の再稼働について、滋賀県と京都府の知事はとても良い提案を政府にした。1、脱原発依存に向けた工程表の提示。2、電力需給状況を検証する電力検証第三者委設置。3、原子力規制庁の早期設置。4、使用済み核燃料の最終処理体制の確立。当事者として当たり前の責任感である。福島第一の事故検証すら終わらない内に再稼働するのだ。当然やらなければならないことである。しかし、政府は夏の電力不足に焦っている。猛暑に20%不足するとして、夏の暑い時期何が要らないかである。まず、野外の自動販売機は禁止。これが出来ないで原発再稼働などとんでもない。小田原市長も「脱原発をめざす首長会議」に名を連ねている。それなら、小田原市関連施設の夏の間の自動販売機はまずやめるべきだ。具体的に何をするかが重要だ。さらに言えば小田原電力の検討会議は、2回の審議内容をみると何とも遅すぎる。5月に3回目らしい。毎週1回程度は審議をして当たり前だ。一般市民を入れなかったのは、電力会社を立ち上げるのに急ぐという話ではなかったか。

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