棚田の形成
棚田が形成されてゆくのは、稲作の広がる第2段階である。第一段階は、自然環境の中で、田んぼにそのまま成るような条件の場所が選ばれたと思われる。地域や地形によって違いがあるだろうが、多くの場合、川の水がなだらかになり、伏流水がわき出る辺りに作られたと思われる。そうした所を神聖な場所と感じる感性の醸成。平野部に広がって行く最終段階の前に、棚田が形成がされてゆく時代があったと考る。原始日本社会の成立の時代。水を扇頂部で取り込み、扇央部分に引き込み棚田として行く。稲作をどうしても行う必要があったために、棚田が形成されてゆく。中国や東アジアにも雄大な棚田が存在しているようだが、日本の棚田の形成と共通項があるのかどうかはよくわからない。日本においては、耕作には不向きな地域において、稲作を行わなくてはならない宗教的とでもいうような熱情が感じられる。
それは集落の形成、権力の形成とも深くかかわっていることである。その事に大和朝廷と言うものの方針が存在する事が推測できる。棚田を作るということは、安定的な社会の基盤が整備されるということになる。土地と言うものに住民が定着するということである。第一段階の狭い範囲のいわば神田のような、お供え物性格の強い状況では、田んぼそのものが神社のような意味で存在し、もっとも作りやすい、ふさわしい場所につくられたであろう。しかし、そのお米が食糧として重要度を増すに従い、棚田の形成が始まる。権力の方針があり、食糧の安定供給にともない住民の定着が進んでゆく。住民は一代限りでなく、将来にわたってその地に住み続けるという、地域への帰属意識が生まれる。棚田を作るということは、作るという土木工事に何世代もかかることである。これを行うのはあくまで未来の子孫の為と言うことになる。それは棚田を作ってくれた先祖を敬うことでもある。
その水利を確保する、集落の権力の形成にが始まる。棚田と言うものは、地形的に不利な条件を承知で、やむを得ず開かれていったのではない。食糧としてのお米を目的にする必要が増し。大きく田んぼを作るためには、棚田しかなかったと考えた方がいい。平野部の水をコントロールすることは、さらに大きな土木工事を行う集団が必要になる。それは、部落のレベルでなく、地域的権力が国家的なものにまで、安定的に形成されてからの事だろう。水利を考えると、日本の環境では棚田を作り、水を順番に回してゆくことが、水の力で耕作する稲作。水を温め生きた水を作る稲作。棚田を人力で作るとなると、1反の田んぼを作ることが一人の人間の一生の仕事になるだろう。私の場合、山を開墾して1畝の田んぼを作るのに3年かかった。一家族が暮らすには、1反の田んぼが必要だとすれば、50家族の集落であれば、5ヘクタールの棚田を必要とする。舟原の集落で田んぼに出来る所をすべて田んぼにしてそのくらいであろう。
棚田の形成は日本人が日本人に成る、道筋を表している。水でつながる集落の暮らし。土着して未来永劫その土地に生きる決意がなければ、棚田の形成はない。城の石垣に彫られる藩の紋章に対して、田んぼの石積みは無名の日本人の意識。その土地に根差して生きて行く宣言である。その一族の力量を無言に示し、地域の結束と豊かさの表現でもある。田んぼを見ればすべてが分かる中での生き方。磨き抜かれて行く百姓の魂でもある。先祖に見守られ、未来の子孫とつながる世界観。社会的制約に満ちた共同責任世界である。その為に、棚田は驚くべき場所にまで作られることになる。又、北の稲作には不向きな地域にまで広がって行くことになる。舟原地域の棚田は、江戸時代初期には存在したと思われる。そして、関東大震災の際石垣はすべて崩れてしまった。しかし、その1年後には又積み直され、耕作が再開されたと言われている。