幸運に恵まれてきた

幸運に恵まれて生かされてきた。何かが助けてくれたような不思議な命拾いが3回ある。死んでいても不思議はないのだが、生かされている。命の幸運だけで無く、何をやるにしても幸運が向こうからやってくる。70歳を過ぎて「のぼたん農園」を始められたのは幸運としか言い様がない。
新聞に出ていた「農地貸します。」不動産屋さんの広告である。石垣島に来るときには絵だけを描いて暮らそうと考えていた。アトリエカーであちこちを描いて回るだけの暮らしにするつもりだった。それが、人との出会いが重なり、4ヘクタールもの農地を借りてしまった。
そのときには7人の仲間が居るだけだった。それでも共働自給農場を10年で完成させる、冒険を始めた。必ず出来ると幸運を信じていた。そして4年半が経過して50人の仲間との冒険は佳境に入っている。毎日作物を見るのが面白くて仕方がない。水牛に癒やされている。
まさか水牛を飼うなど考えても居なかった。全く不思議な縁で水牛を預かり、農場の開墾を始めた。「蹄耕法」である。今は17歳のサクラと、4歳の「のぼたん」とハーリーの3頭が居る。天水田が2反あり、五穀栽培が3反。熱帯果樹や樹林コーヒー園まである。
必要なときに必要なものがどこからか舞い降りてくる。どうしてだろうかと思うが、幸運としか思えない。のぼたん農園にはこういう人が居て欲しいなと思うと、そういう人が来てくれる。それはあしがら農の会でも同じような幸運の巡り合わせだった。そうして活動が継続されてきた。
活動にいつも不足部分があるからだ。不足部分を埋めてくれる誰かが必ず現われる。昨日は九州大学の方が、のぼたん農園の在り方について、勉強させて貰いたいという方が現われた。つまり、のぼたん農園もその在り方を自問するときが来ていると言うことだと思えた。稲刈りの頃に、崎枝に泊まり込んで皆さんから話を聞きたいと言われた。
農の会については私が居なくなることが、必要なときだと思えて、石垣島に移ったら、その通りに新しい農の会になり動き出している。その先のことは分からないが、まずまず一安心である。こうして自分がいなくなる幸運まで呼び寄せることが出来た。不思議な巡り合わせである。
先日、ユンボのキャタビラが外れた。それで、救援をたまたま水牛の嶋田さんに電話をした。嶋田さんが直せるわけではないが、何か嶋田さんに電話すれば解決するような気がした。すると、何と嶋田さんのところに水牛の子供を見に来ていたカヨさんとアイミ-さんと言う人が居あわせた。
そして、直せる人を今から連れて行ってあげると電話の隣で話してくれた。全く天使が舞い降りた、不思議な体験だった。おかげでその日のうちにキャタビラを直すことが出来たばかりで無く、うみんちゅうだった谷さんという素晴しい方と知り合いになることが出来た。
そして、カヨさんやアイミーさんや若菜さんが一緒にのぼたん農園の仲間になってくれた。忽ちのぼたん農園の主力メンバーになり、大活躍してくれている。その3人は、インディカ米が作りたいと言うことで、4種類ものインディカ米を作っている。実は、インディカ米の栽培は試してみる必要があると考えて居たことだった。
こういうことは珍しいことでは無く、すべてがこの調子で何とかなってきた。何とかなるに違いないと思い、何でも始めてしまうことになる。そうでなければ、今のぼたん農園をやれているわけがない。そもそも、のぼたん農園の開墾をしてくれたのは水牛である。
耕作放棄され、入ることすら出来ないほど荒れ地化していた農場跡地を借りた。水牛が蹄耕法で整地してくれたのだ。水牛2頭で1ヶ月ほどの間に、3,6ヘクタールの面積を素晴しい農地に戻してくれた。それから、ユンボで棚田を12枚作った。土地を借りたのが、12月だったのだが、もうその年の2月には田植が出来たのだ。
水牛との出会いは福仲先生との出会いである。つまり、私の幸運は人との出会いにある。福仲先生は、土地を見る力がある本物の百姓である。与那国島でそだって、石垣島の農林高校で長年教師をされた方だ。この方ほど万能な百姓力の方は見たことがない。
この農場のここに井戸がある。どう掘れば良いかのすべてが見えている。ユンボで棚田や溜め池を作る方法もすべて教えて貰った。あれから4年半で農場の農地は4ヘクタールになりすべてが、整備された。それは昨日50人になった仲間と3頭の水牛とのの出会いの幸運にある。
1人で出来ることなど、限られている。私が1人では何も出来ない人間のおかげで、人が助けてくれる。出来ないことが沢山あるので、補ってくれる。こうして誰かが助けてやるしかないかと、手を貸してくれる。のぼたん農園には新しい人が現われ、その人らしい役割のある組織になることが出来た。
のぼたん農園はいつも十分ではない組織である。未来に完成が待っている組織である。参加者の誰もが、自分の役割を感じることが出来る組織である。その1人が現われることで、その人の分担が生まれる。そうして新しい全体が組み直される。この絶妙な揺動のような動きが生まれた。
揺動板というものが、籾すり機にある。籾が揺すられながら籾殻と玄米に分かれて行く。傾斜したでこぼこの板である。人間も擦られて殻を落とし、揺すられて、丸くなり、本質だけの存在になって行く。生きていると言うことは揺動板の中にいるということのようだ。
どこまでゆるくなれるか。ゆるくなれば幸運に恵まれる。固まったものには、安定はあるだろうが、幸運は来ない。安定のない浮遊の状態で居ることが好きなのだろう。好きこそものの上手で、上手くすり抜けて、沈没せずに進んできたような気がする。
では肝心の絵の方はどうだろうかと言えば、一番の幸運は父親である。最高の父親であった。好きなことを捜してそれだけをやれ。このことばかり言ってくれた。そして、好きな絵を描く以上、生涯絵を描いていられるようにしてくれた。少なくともその土台を与えてくれた。
生活の収入のことは考えたことがない。何とかなるに違いないと思い流れに従ってきた。すると回りに有能な人が現われて、その道筋に乗せてくれた。教員になるように進めてくれた加藤先生。山北の開墾生活を始めたときの幸運は小笠原プレシジョンとの出会い。
学校で今度同窓会名簿が出来たのでと言うことでいただいた。何しろ創立400年というような学校だから、分厚い同窓会誌だ。いただいて開いてみたページに小笠原プレシジョンという名前があった。その前日開拓場所を捜して行った山の上の場所にあった不思議な工場が小笠原プレシジョンだった。
小笠原さんは加藤先生の生徒であり、美術部の生徒だった。美術部の私の6年先輩の方だった。そのご縁で、山北の山を購入することが出来た。そして、自給生活を目指して暮らし始めた。不思議な縁の幸運がなければ、実現できないことだ。何故あの日同窓会名簿が出来たのだろうかと思う。
何という恵まれた日々であろうかと思う。1人では何も出来ない人間なので、大勢の人に助けてもらえた。何でも1人で出来る人間であれば、誰も助けることが出来ない。不足ばかりの人間だから、みんなが助けてくれるのだと思う。私が出来ることは恩返しだけだ。
きれい事で恩返しを言っているわけではない。本音である。何とか皆さんから受けたご恩をお返ししなければと、全力で生きている。絵を描いていると言うこともそうだし、のぼたん農園をやることもそうだ。これからも一年でも長く、続けたいと思う。