絵では考えない

無念無想と言うことが禅では教えられた。座禅を組んでいるときに考えないことである。想念は湧いてくるが、それにとらわれずに流して行くようにと言われていた。何故考えないことに意味があるのかと思うが、修行なのだから、ともかくそうあろうという努力をした。
絵を描いていると考えると言うことほど絵に邪魔になるものはないと思う。構図はどういうのが良いとか、赤がこれだけあるから補植をどこかに置くとか。考えることで自分の絵から外れて行く。考える先にあるのが、自分が好きな人が作り上げた絵に向かうことになる。これが考える一番悪いところだ。
音楽を作曲することを考えればわかる。バッハやモーツアルトの音楽は自分の中から湧き出てきた音楽を書き留めているように感じる。日本のクラシックの作られた曲を聴くと、頭で、西洋のクラシックを理解して、それを日本的な音で組み直しているようなものが多い。そういうものから感動することなど全くない。
芸術作品というものはその人の中から湧き出てきたものに感動するものだ。その人の世界に感動している。感動するような世界を持っていない人の作品はどれほど上手に作られているとしても、人を動かすような力はない。人が感動できるような人間でなければ、芸術を生み出すことは出来ない。
絵を描くという行為の方に重きを置いている。出来た絵のことよりも、描くという行為に芸術的充足感を求めている。観客の居ない舞踏のようなものである。つまり祈りの行為のようなものである。ひたすら読経を読む。只管打坐。回峰行。すべて同じ行の発想である。
描かれた絵が人間性の現れだとすれば、くだらない人の絵は下らないに決まっている。見せられたくもない。もちろんそれは最終的な話であって、自分の描く絵のレベルはもっともっと手前の話なのだから、そういう究極の絵の話を持ち出すと、おかしな考えに陥る。
考えることよりも、考えないことに意味があるとする宗教的行為は多いと思う。絵を描いていると何かがひらめいて次に進む。考えてこうしたら良いというような展開は私にはない。ひたすらひらめくまで無心で待つ。どこかに結論があって絵を描いているわけではないと言うことだと思う。
結論を求めて行う行為であれば、考えて考えて絞り出すことになる。世の中のと言うか、産業というようなものであれば、良い結果という目的があり、そこに向けて試行錯誤することになる。新しい自動車を作るとか。新メニューを開発するとか。頭で考えることが山ほどあるのだろう。
絵を商品として考えれば、売れる絵というスタイルがあり、その売れるという結果に向けて絵を描くと言うことだろう。それはインスタント食品の開発の工夫と何ら変わらない。そのための工夫とか、いろいろ必要になるに違いないが、芸術としての絵画には何も目的はない。
自分という存在が絞り出す世界観を示すだけと言うことになる。たまたまそれが商品絵画としても評価される場合はある。しかし、ゴッホの絵やセザンヌの絵が、評価されなかったように、世間の評価に向けて絵を描いていたわけではないことは当然である。
やむにやまれず絞り出していると言うことなのだろう。当然頭で考えて工夫して描くというようなものではない。商品絵画の時代だから、頭で描くものが蔓延していて、絵を描くのも、右能で頭で工夫して描くようなものと、勘違いしがちだが、それはあくまで商品絵画という、芸術とは関係のない絵の話である。
それでは考えないで描けるのか。それがなかなか難しいことだ。長い訓練が必要になる。私の場合で言えば、10年は考えないようにしようと意識して描かなければ、いくらかでも考えないで描いている状態には成らなかった。長年の間違った考え方をしてきたために、ついつい考えて描く悪習慣が残っているためだ。幼稚園で絵を描いたときにも、頭で絵を描いていた。ただ頭が十分には出来ていなかっただけだ。
考えると言うことを捨てるためには、考えないようにする訓練が必要と言うことになる。それには10年間毎日繰り返さなければ、出来ないことだから、そんな当てのないことを誰もやらないだろう。一般的には、自分が良い絵と考える絵を描こうと頭をひねることになる。
良い絵ならまだ増しで、どうすれば評価される絵を描こうかと考えて居る人の中には、盗作までする人さえ居る。そうしてつまらない画壇というような絵画世界の中でのし上がろうというような、くだらない人が溢れているのが、美術界隈の濁った世界のような気がする。
考えない話であった。私がブログを書いているのは、ここではとことん頭で考えようと思うからだ。昨日描いた絵を目の前において、絵のことを散々頭で考えて居る。絵を描くときには何も考えないで描こうとするが、こうしてブログを書くときには頭で絵画とは何かを、繰り返し考える。
と言ってもここで描いているブログの文章がすべてで、大したものではない頭の巡りであることは、読んでいただけば分かるわけだが。その自分の頭で考えると言うことが重要と考えて居る。考えては行い。行っては考える。これだけを継続して行く。
精一杯頭を使うことができれば、文章を書くと言うことは、それで良いと思っている。人と比べて良いとか悪いとか言うことは、日記なのだから今更どうでも良い。その日に思いつくことに、文章を書きながら頭の中から、思考することを引き出している。
絵を描くときに考えないために、絵のことを文章で書くと言うこともあると思う。絵を描くときに考えないという意味は、具体的にはどう言う絵を描くとか、あそこをどうしようとか考えないと言うことだ。頭は今日の空はいつもの空と違うなあ。雨が降りそうだ。とか頭の中は動いている。
しかし、この絵をどうしようとか、あそこに筆を入れた方が良いとか、あそこを重くしようとか、そんな工夫を考えないと言うことだ。反応にしたがって進める。例えば良くあることなのだが、赤い絵の具を筆に付けようとしたら、隣の黄色に筆が行ってしまう。それで赤を塗ろうとしていただろう所に黄色の色が塗られる。
それで良いとして描いていると言うことだ。絵に失敗などない。何故か腕が黄色を選択した。その結果思いも寄らないことが生まれる。その結果から新しい展開が始まる。描こうとした線が思ったところではないところに行くことも良くある。それもまた次につないで行く。
絵の具がたれてしまった。筆がそれてしまった。そう言うことも絵を描くことの一部だと考えて受け入れて絵を描く。頭はフル回転しているのだが、絵のことを考えて居ない状態と言うことが近い。だんだんそうなってきたと言うことだ。そうなってきたら、自分の絵にいくらか現われてきた気がする。
その絵は考えて居たようなえではない。これは驚くべきことだ。自分で見てまさかこういう絵を描くとは思わなかったというような絵だ。自分が一番自分を分からないと言うことなのだろう。自分と考えてきたものは、自分がいい絵だと思えた絵から、受け売りで作り上げたものだったようだ。
その自分の絵は、自分では思いも寄らないものであるのだが、やっぱり自分だなというものに近づいてきた気がする。そんな気が少しするので、ますます、考えないで絵を描こうと、努力している。いつの間にか考えて居ることがまだある。ああこれではダメだとまた0に戻す。
あと25年これを続けたい。考えないで絵を描くを始めて、7年が経つ。石垣島に来たことは、考えないで描くためでもある。まだ7年に過ぎないから、到底おぼつかない。もっと早くから行に入れば良かったわけだが、ずいぶん遠回りしたと思う。俗物の情けなさだが、只管打画でつづける。