政党政治の終焉
大阪では維新の会の候補が、大阪市と府の両方で圧勝した。既成政党の候補者はどの程度票を集めるのかに興味があった。75万対52万と言うことだ。既成政党が善戦したという気がする。既成政党候補には、民主から自民から、共産党まで並んだ。そう言う支持層が52万ということなのだろう。既成政党支持者はすべてを足しても過半数行かないというのが、どこにもある現実である。橋下氏が投票率を上げることを願ったが、市長選は60%、府知事選は50%。それ以外のつまり半数以外の人が、無関心層と言うことなのだから、既成政党支持者は全部合わせても20%しかいないというのが現実である。これが民主党が政権を取った、成果と言えば言える。政党に期待した所で、駄目だということが常識になりつつあるということだ。偉い先生にお願いして、社会が変わるような状況でないという認識というか、諦め。
マキャベリ的に言えば、衆寓政治状態に入っている。だとすれば、次に気おつけなくてはいけないのが、独裁政治と言うことになる。橋下氏の発言はここを上手くついている。ソフトなイメージを背景にして、極めて独善的な発言を行う。教育の独裁への改革を発言している。この点東京の石原氏と類似する。常に、大衆受けの計算が働く。石原氏が東北の震災瓦礫の処理をいち早く受け入れ、進めている。0,3%と言われる必ず、反対する人たちの動きを上手く計算に入れている。これは東京の廃棄物訴訟に加わった時に、実感したことだ。反対勢力こそをイメージアップに使う手法。反対をする人を狭量な、原理主義者にイメージ化して行く。論理を越える手法である。わざと過激発言を行う。それにつられたように、必ず、反対の中に狂信的意見が飛び出す。それをあげつらい、「こういうやつらが日本をダメにするのだ。半島の勢力に、動かされているのだ。」などと訳の分からないことを言って、大衆誘導を行う。
「何とかせにゃならん。」は誰もが考えている所である。その方法が見えない。野田首相のTPPの訳のわからないさが象徴的である。良くなるかどうか、分からないのだが、このままではどうにもならん。つまり泥沼にはまった、いかわ氏状態。一発逆転などない。ないにもかかわらず、追い込まれれば、いよいよ一機解決を期待する。農家を5年で30ヘクタールにする。もう政策とは言えない。この方針が良いかどうかより、これを進めるには、独裁しかない。と言うところに次は話を転嫁されてゆく。30ではだめだから、100と言う話を持ち出して、大型化したとしても何も解決できないかもしれないという、基本的議論を避けてしまう。日本はもう何ともならん所に来ているという自覚をしなければならない。貿易の自由化をしても解決などない。世界経済は激変期を迎えている。どう耐えるかを考えるべき所だ。
耐える政治局面はとても地味で、人気など出ない。成果も出ない。やれることは少なく耐え忍ぶ方策である。選挙で出来ている、民主主義では独裁に期待する危うさがある。政治家は選挙だけ見て生きているように見える。私はこんな事業を止めさせました。あんな政策も中止しました。ともかく何もやらないように食い止めました。これでは票にはならないだろう。少なくとも、諏訪ノ原公園を誘致したことを手柄にする議員に投票していても、状況が厳しくなるということではないか。日本の新しい形を提起できる議員を期待したい。石原氏や橋下氏に日本をお任せする訳にはいかない。と言って、既成政党はさらに駄目である。ここは地道に、段ボールコンポストをやることである。議員こそ自分の暮らしをしっかりと確立することである。先日、この地区の衆議院の候補にそう言ったら、そんな暇が無いと言っていた。残念ながら、そんな暮らしだから駄目だという意味が伝わらなかった。