戻れないことの怖さ
廃棄物において、処理困難物が一番処理費用がかかる。まして処理不可能な原子力廃棄物は、無限大の費用を見なければならない。元に戻れないものを作ってしまう程怖いことは無い。原発と言うものが、今までの文化とまるで違っていたのは、戻ることが出来ない一方向のものだということだ。一旦作り出してしまった核廃棄物と言うものは、元に戻す事が出来ない。無害化する方法がない。何万年という時間をかけて、核廃棄物は管理を続けなければならない。あの原子力エネルギーが、いまだ安価、安定的なエネルギーであると発言する人がいるが、腹の底に悪意を持っているとしか考えられない。何か未来に対して深い恨みでも抱いていて、手に負えない困難を次世代に残してやろうとでも、考えている可能性がある。反省の出来ない人間。原子炉の解体処分だけを考えてみても、どれほどの費用が今後必要であるか。処理できないのだから、予算だって立てようがない位膨大になるだろう。
日本の多くの企業は、すでに常軌を逸している。日本の将来うんぬんも、なにもかもあったものではない。とりあえず会社が生き残るためには、毒までくらえという心境なのではないか。本音としては原発うんぬんではない。電気料金でもない。日本の企業はすでに行き詰っていたのだ。世界との競争に敗れかかっていた。世界全体が深刻な末期的な状況に陥っていた。原因の根底にあるものは人間力の低下。原発対応のでたらめを見れば、企業の組織運営だけがまともな訳が無い。それが、今度の大震災と原発事故である。一切の責任に転嫁しようと企業家はしている。電力会社も、経団連も、保安院も、佐賀県知事も、原発のやらせチームだったことが、はっきりとした。困難な放射能廃物処理は、何も展望のないまま残されている。
一方向のものは利用してはならない。排捨処理方法が分かるまで封印しなければならない。すでにその意味で、やりたくても原子力は不可能な状況にまで来ていた。アメリカやフランスは相変わらず、原発でやってゆこうとしている。競争に勝つことだけが目的の資本主義経済のもとでは、原発の当面有利さに目が奪われる。後から来る処理費までは見ていない。しかし、石油に依存している国が石油が枯渇した状況は、悲惨だろう。原発に依存しているということは、そう遠くない未来に行き詰まるということである。ウラン資源が枯渇するということもあるし、廃棄物の処理費用が重荷に成って経済に表れて来るはずだ。転換が遅れた国こそ、経済困難が待っているはずだ。アメリカ時代が終わるのは、原発が原因に成るかもしれない。中国など今原子力依存を強めているが、あの高速鉄道の事故処理を見ると、危険度は高い。
ごみが人類を滅ぼすということは、こういうことだった。失敗に向かい合うことはできないものだ。この先、原子力の後始末にどれほどの費用がかさむのか、日本経済の長い間の重荷に成るだろう。我々世代はその恩恵を受けた責任があるが、次世代にしてみれば、処理不可能な汚染物質をただ押し付けられるだけである。戦後世代の悪行は長く日本史に残ることだろう。せめて、再出発の方向付けである。戻れないものには、利益優先で踏み込まない、文化度である。循環して行く社会に移行する必要がある。気が付いた今から始めることである。資本主義経済の消費拡大の、宣伝に乗せられた暮らしから、身を引くことである。節電の暮らし方の方が理にかなっている。身の丈の暮らしをする清々とした気分。昔の人なら後生が悪いというところである。
今日の自給作業:草刈り1時間 累計時間:15時間