13回水彩人展開催

   

13回水彩人展が今日から始まる。川崎の「アートガーデンかわさき」川崎駅前タワーリパーク3階。昨日は、一日かけて展示と互評会を行った。水彩人展はこのところ東京都美術館で開催していたのだが、建て替えに近い改装中ということで、長期閉館のため川崎のギャラリーで開催することにした。初めての会場で展示も戸惑ったのだが、丸一日展示日に当ててじっくり展示した。どうだろうか、良い会場になったか少し心配である。上の写真が展示途中の状態である。下の写真が3点の私の絵を飾ったところである。この絵については、見ていただくしかない。

以前も書いたことだが、震災以降眼に映るものすべてが、色褪せて見えるようになった。満開の桜すら面白くもおかしくもなかった。今も、震災前のように景色を見ることは出来ない。いままで景色を見ていた目が、どれほど甘いものであったかを思い知らされた。麦が一面実っていても、素晴らしいとは見えなかった。すっかり放射能を浴びてしまったという、衝撃だけが浮かんだ。それでもその麦を刈らなければならない。畑の除染をしなければならない。放射能は目に見えると言う訳ではないが、畑は以前のようには見えない。本来なら、この放射能に汚されてしまった畑を見ている今の状態に、以前から気付いていなければならなかった。いかにおめでたい目をしていたことかと思うと、情けない。何を描いていたのか、自分の浅はかさに愕然とする。

今でも絵を描く気持ちがある訳ではなかった。今回、水彩人展があるため、絵を無理に描いた。こういうことは初めてであった。月光を描いた。月光なら何とか絵に出来るような気持になったからだ。小田原の海が、月に輝いていた。あの光景が鎮魂に見えた。海が怖ろしくて、見る気にもなれなかったのだが、月が真っ白に海に広がり、儀式を行っているようである。人間の馬鹿げた行為を飲み込んでいる。全く無機的に、無感情に、人間のことなど一切なく海は月に白く反射をしている。これなら描けるかもわからないと思って、描いてみた。絵にするとか、良いものにするとか、自分とか、そういうものでなく、ありのままの月に光る海を描いてみた。

仲間の批評では、絵作りをしているということだった。ある意味すべてをゆだねて描くとしても、身に付いた絵作りの技術のようなものは変わらなくある。これも何か情けないことである。絵を学んで少しでも良くしたいとかいう前向きなものはない。記録しておこうというようなことだ。今目に写っているものを、駄目でも残しておこう。美しいということは自分の意識の事であった。薄皮を剥ぐようにと言うが、果たして回復するというようなことなのか、むしろ本当の状態に気付かされたのか。いつも、わくわくするよう田んぼの実りすら、他所事のように見える。豪雨や台風にも耐えようと頑張ってくれている、稲に申し訳ない気持ちである。絵画であるとか、絵を描いているとか、そういうことを離れて、自分なりに見えているものを記録しておこうということしかない。

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