尖閣諸島の衝突
国境の意味を考えてみたい。尖閣諸島で中国漁船と日本の海上保安庁の巡視船の衝突が起こり、漁船の船長を日本側が拘束した。偶発的な事故とも思えないが。結果日中関係が急激におかしくなった。もろいものだ。結論か書けば、何故領土問題に固執するのか、意味が分からない。国家主義と領土問題は密接に関係しているようで、多くの右翼組織は、北方領土返還を掲げている。日本人としての民族誇りとか、民族の責任とかいうものとは、領土問題は切り離して考えた方がいい。所が、領土問題がのどのとげのように、隣接する国家との間には必ずある。何か事があると、こののどのとげが刺激されて、日本人のナショナリズムが湧きあがる。人類と考えれば、将来国境というものは無くなるものである。日本人という民族は存在するだろうし。そうでなければならないが、国境というものは取り払われた形で存在したほうが、望ましい。今起きている問題はその過程にある、前進の為の材料ぐらいのものだ。
国家というものや、国益というものの基本は、経済的権益と言える状況である。中国との軋轢はガス田の採掘権のようなものが絡んでいる。冷静に考えれば、それが日本であろうが、中国であろうが、何も変わりがないはずではないか。それが国際企業という国境を超えた存在が経済を担っている、自由主義経済の方向のはずだ。トヨタという自動車会社は世界の企業である。いま中国の企業が躍進している。それは日本人にとっても、素晴らしいことであるというのが、自由主義経済の基本的な認識のはずだ。そう言う前提でないなら、自由貿易とか、関税障壁の撤廃とか、通貨変動の自由化、こういうことを要求すること自体がおかしい。にもかかわらず、現実は経済も国家主義である矛盾。法人税を下げなければ、企業が海外に移転する。これでは雇用が維持できない。管総理の発言は、ご都合主義に見える。自由競争を標榜するなら、負ける時も認めなければならない。
日本の企業が中国に移転したとしても、あるいは実質は中国人を雇用して経営していたとしても、雇用については同じであろう。優秀で、低賃金のところで、経営したいというのは、資本の論理の行き着くところである。日本人一人ひとりの資質の問題である。それだけの能力を培って、働けば生きて行ける。経済は国家を超えようとしているのに、国境問題を政治に利用するのは愚かではないか。日本人の雇用を考えたら、教育である。自分の就職を考えても、ユーキャンで資格を取るというではないか。少しでも能力を高める以外、働く場はない。国家として、教育に少しでも投資をするというのは、雇用を高める最短の道である。高校無償化もその意味では当然のことである。
国境問題でもめるほどばかばかしいことはない。国家というものの尊厳をそういうところに置くべきでない。国連が本来扱う問題である。隣の家との境を当事者同士で、争えば問題がエスカレートして、良い解決はできない。第3者が仲裁に入り、客観的な結論を導き出す以外、方法が無い。尖閣諸島を日本固有の領土だと、確信があるなら、なおさら、国連に判断を任せたらどうだろう。竹島でも、北方領土でも同じことである。日本は判断を国連に任せる。その背景には経済と領土は関係が無いという、整理が必要である。たとえば、尖閣列島に膨大な石油があったとして、中東のような状態に日本がなることは、日本民族にとって、有難いこととは到底思えない。日本人が世界で普通に暮らして行ける。それにふさわしい努力をして、能力を磨いてゆくそのことが、人間としてより良く生きるということだと思う。領土にすがりつく必要などない。