68回水彩連盟展

   

新国立美術館において、水彩連盟展が開かれている。かかわっていると言えような状態でもないのだが、私も出品させてもらっている。公募展に絵を出品すると言う事はどう言う事なのか、判らないままここまで続けてきたような状態である。展覧会を運営してくれている方々から見れば、許しがたい人間であろう。私が運営側に居たら、そう思うに違いない。それでは何故、続けているのだろうか。そんなことを毎年思いながら、がけっぷちで継続している。「そんなことなら止めたらどうだ。」そう言う事も直接言われたこともあるぐらいだ。でも何とか、続けるほうを選択している。言い訳も何もないわけだが、水彩の仲間がそこに居るからとしか思いようがない。あれこれ思いながらも水彩連盟に行くと、良い水彩画に出会うことが出来る。これもあったか、と言うような新しい切り口に出会うことが出来る。水彩画はやはりまだ、結論の出ていない技法だ。

水彩画がとは何か。これは繰り返し考えてきたことだが、今年も色々考えさせられる。全体の雰囲気は、新国立に移り3年目。随分と変わった。意識しないでも、器に適合するものだ。中心となるベテラン会員はほとんど動かないが、努力している、準会員、一般の人は、見違えるほど変化している。変化の方向は二つ出てきているようだ。当然ながら、水彩らしい水彩と。とても水彩とは思えないもの。不思議なことなのだが、「本当に水彩なのですか。」と言う感想を長年褒め言葉と思い込んできた水彩連盟である。そういった感想をする人の方では、「水彩画が見たいと思ってきたのに。」がっかりしているのである。いわゆる水彩風でないことを、誇らしげに考えた時代があった。しかし、この認識は払拭された。現在、アクリル画が主流と成っている。当然水彩画ではなないのだから、水彩風でないのは当然の事である。それも、一つの方向ではあるのだろう。

「描く内容が問題で材料を云々することが、おかしい。」こう言う意見がある。何故、「水彩」連盟と名乗るのだろうか。会の目的に、現代水彩の探求がうたわれている。見に来る方々が、水彩画をみたいというのは間違えではない。アクリル画は会員に多い。見栄えがする。目立つ。新しいそうである。この問題を真剣に取り組む必要が、出てきていないだろうか。水彩連盟主催で、大討論会でも開催したら良い。きちっと考えないまま、状況に押されて、曖昧にアクリル画全盛の時代が定着した。こう言う事は、水彩を考える上で障害になっていないか。展示の仕方でも、この材料の違いを明確にしたらどうなのだろう。出品要綱に材料を明示して、その分類で展示する。そうでもしないと、見ていて混乱してくる。そう、あの会場は見ていただくという。会場になっていない。見せてやっていると言わんばかりの会場である。

今までの、上野の公募展は確かに、見る人は置いてきぼりの会場が多かった。しかし、新国立に移り、見ていただく会場に変わった団体が多い。ゆっくり絵を味わってもらうような会場になってきている。当然の変化である。残念ながら、水彩連盟は上野の時以上に、見ずらい会場になってきている。私も150号という大きなものを出した。昨年は40号にしたら、遺作なのかと言われた。そのとき描きたい物を描くので、仕方が無い所もあるが、もう100号以下にせざる得ない状況かも知れない。中盤全紙程度の絵が見やすく飾られる部屋を作るというのもある。もう一度ゆっくり見て、研究したい。その上で、絵の感想を書きたいと思っている。

昨日の自給作業:堆肥撒き、ヤマイモサトイモの植え付け、1時間。 累計:5時間。

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