いのちの食べかた

   

原題「Our Daily Bread」私たちの日々の糧ということらしい。ニコラス・ゲイハルター監督作品。(1972年オーストリア・ウィーン生まれ。)とても冷たい感触の映画だった。養鶏業で生きてきた人間として、見ておかないとならないと思い、二宮まで見に行った。体調が悪かったと言う事もあったのだが、吐き気がしばらく止まらなかった。ショッキングなシーンの連続と言う事もあるが、見たこともある場面も多いし。鶏については何せやっていることだ。私が気持ち悪かったのは、こうした屠場の屠殺場面の扱い方だ。いかにも表現者の客観性を装う、意図の放棄だ。自己満足だけの絵を見せられ続けていることが、耐え難かったのだ。これが、オーストリア人の冷血なのか。こういう映画を見ると、人種と言うものの壁があるような気に成る。

いくつもの賞を受賞している。アチコチで評価もされているようだ。日本でも相当の評価がされ、上映が続いている。何でこんな俗悪な映画が評価されるのだろうか。君子厨房に入らず、と言うのではない。いのちを食べるという、切実さを直視する。この点は大切。しかし、「いのちを問う」と言う事はその先の問題に対して、考えを持つから出なくてはならない。それが表現と言うものの責任だと思っている。興味本位に、センセーショナルな場面をドキュメントしたから、それで表現者の責任が完了した、とはとても言えない。例えば、世界中の人間の死刑の場面を撮影できたとして、それをただただ、垂れ流して、済むだろうか。それは、アチコチで評判を取り、評価を受けるのだろうか。ドキュメンタリーだから、それで制作者の責任はないのだろうか。

それでもその映画が、死刑廃止論者の主張のための、手法と言うのであれば、納まる所がある。ドキュメンタリーの客観性という名のもとに、表現者の責任が回避されている。ここが気持ち悪いのだ。フェルメールの絵画のように美しい映像。こういう評論があった。フェルメールの絵をまったく理解していない。親密な人間的な視線が、フェルメールの時代を越えた魅力だ。むしろ、フランシス・ベイコンの絵を思い出した。不気味さとしては思い出したが、その哲学は丸で違う。いかがわしい映画ヤコペッティの「世界残酷物語」ニューギニアの豚に人間の乳を与える人。台北の犬肉レストラン。フランスの鵝鳥の肝臓を大きくする特別食。日本の松坂のビールを飲む牛。こんなものが延々と興味本位に続く。それでもせめてもB級映画らしい視線がある。

原題「私たちの日々の糧」に続く言葉として、監督は「主よ、私たちの罪をお許し下さい。」と語っている。そんなニュアンスは画面には全くない。監督は唯一の意図の表現とした、映画の題名に唯一見える仕掛けたものは、実に遠まわしではあるが、やはり、人間に対する告発なのだろう。いきものを食べ続けていいのですか。これを実に分かりにくく、責任を逃れながら、主張しようと言うのが意図だろう。お前だって食べているだろう。とか言われることに、対して、前もって逃げ腰であり。ドキュメンタリーの客観と言う隠れ蓑に逃れようと言う、姿勢だ。実に実状に対して、悪い映画だ。これを見て、現実の一端を知るなどと言う事はない。これは外部者が、想像している通りの、畜産の現場だ。あくまで外部者のあってほしい、畜産の現場だ断面だ。誤解を広める悪い映画であった。

 - Peace Cafe