年賀状の制作
毎年今頃になると年賀状を書く。400枚ぐらいは出す。水彩画を描く事にしている。住所やそのほかは全て、プリンターで印刷し、その代わり、絵の方は出来る限り手をかける事にしている。下描きが終わったところだ。これもプリンターで行う。
今年の図柄は猫だ。猫が庭に寝転んでいるところだ。猫の前には池があるようにしたい。猫の周りの草は、みどりの強い澄み切った、勢力旺盛な夏草にしたい。池には空の雲が映っている、のもいいと思っている。猫は寝転んで手招きしている。どの猫になるかがまだ決まっていない。
6匹の猫が居る。それぞれの事情があって、6匹の猫になった。どの猫も外には出していけない事になっている。家の中に6匹の猫がいると言う事は、猫小屋に人間が住まわしてもらっているようになる。理解できない箱とか、布とかが、櫓とかが、あちこちに据え付けてあって、邪魔だからと言って片付けるわけには行かない。
最近は、アニマルコミュニケーターとかがはやりで、猫と語れると言うのだ。電話で相談すると。猫がなんと言っているか教えてくれるのだそうだ。一回猫の話を聞くのに、3000円かかるそうだ。全く不思議な商売だ。猫語翻訳機と言うのも一時でたようなので。猫を飼っていながら、猫が何を考えているか分からないという、観察力の無い人が増えていると言う事なのだろう。
これは猫だからいいようなもので、子どもが何を言っているか理解できない、お父さん。生徒の言葉が理解できない、学校の先生。市民が何を言っているか理解できない、議員さん。言葉が通じない事はいくらでもある。翻訳機を使ったところで、何も伝わるわけではない。「今のニャーゴは、僕の事もう少し気にして。と言う事です。」などと言われて。一体どうしようと言うのだろう。
百姓は観察力だ。これは皆が等しく言うところだ。洞察力と言う方が近いかもしれない。言葉になりにくい為、技術にならずに、技になってしまう。実は絵画のおもしろさもそうなのだと言う話だ。猫が、何処まで洞察できているか。この面白さだ。猫を通して世界が何処まで見えるかが面白いのだと思う。絵と言う方法はこの辺が、実に良く伝わる方法で、言葉などに頼ってのコミュニケーションよりはるかい直接的だ。
ところが絵画にも翻訳機がいる。一向に理解できない人も多いい。これは描くほうの問題よりも、猫語を理解できない人間のほうに問題がある、場合が多々ある。言葉にできないことを描いている。言葉にしないと、言葉以外のことは無いと考えているような人には、何も伝わりはしない。ところが、マチスの一枚の絵から、それは多様な、限りないメッセージが伝わる。描かれていれば、伝わる人には伝わる。
そういえば美術館でも、ガイドのイヤホーンを聞きながら、絵を見ている人がいる。たぶんあれは、絵の翻訳機なのだろう。絵画において、説明をしなければ伝わらないような、ものが在るとするなら、それはどうでもいいことだろう。絵はすごく簡単な物でありながら、難解な物だと思う。それが絵の面白さで、肝心な物はすごくシンプルであり、全てであり、全体性なのだと思う。高等数学をいくら説明の上手な先生に教えていただいても、理解できる訳が無い。
年賀状を描くのを、毎年すごく楽しみにしている。大したことが描けるわけではないが、私なりの事が、描けるよう全力であたれる。そう言う事があるのがうれしい。