水谷仁美さんの画集「水彩の筆あと」
「水彩の筆あと」
水谷仁美さんの画集が送られてきた。遺作展があったようにも聞いたが、知らないまま過ぎていた。葬儀も出席できず、香典だけ届けると言う状態だった。
今になって画集を見ながら、寂しさが通り抜ける。
水谷さんとは、水彩連盟に出し始めてからの付き合いだったので、25年ぐらいの長いような、短いような付き合いだった。水谷さんは、長沢節さんが、節モードセミナーを開催して、最初の生徒だったそうだ。今の、四谷の裏の方に移る前で、池袋の方とかにあった頃だと聞いている。この画集を編集したのも、永井健司さんと書いてある。懐かしい方で、やはりセツの初期の方だ。
長沢先生には不思議に親しくしていただいた。私はセツにはかかわりがなかったが、なぜかセツ出身と思われていたぐらいだ。かっこいい好きの、長沢さんとしては、私とのかかわりは、ちょっと変だったかもしれない。長沢さんには、「人のお酒をついじゃダメ!」とか色々生き方を教わった。水谷さんもそうだった。随分フォローしてくれた。絵の世界にいる人間は、大方人間としてはろくでもない者が多い。許しちゃいけない人間が、かなりいる。盗作で問題になった和田さんのような人が、闊歩している世界だ。
水谷さんが、長沢さんの最初の生徒だったと知ったのは随分後だったけど。見えない深いところで優しいのは、似ていた。私などは水彩連盟の、異物で、笹村を受け入れたところが、水彩連盟のいい所だと言われるほどで、文句ばっかり言ってきた。長沢さんは私が出した年に入れ違いで出すのを止めちゃったので、上野では会わなかったけど。代わりの様に水谷さんには、助けられていた。と言っても表立ってそういうことをする人で無いので、後で、知ると言う事だった。
水谷さんがすごいのは、歩けなくなって、もう長くないってみんなに噂されるのが厭だ、とか言いながら、段々絵が良くなったことだ。それは本人が一番自覚していた。描写的なものから、段々抜け出ていった。しかし、今になって画集を見ると初期の絵に、むしろ水谷さんが、居て、世間的に絵としていいというのは、どんなことなのかとも思う。
又、歩けるようになって、目黒のクラマーの水彩人の初日に、来てくれたのが、最後にゆっくり話せたときだった。絵画性ということを、盛んに話してくれた。そういうことが少しわかった、と言う。そういうつもりで、絵を描いたら、そのことを、何人かに分かってもらえたんだ。そう言って心底喜んでいた。
「絵を描くっていい。分かり合える人が居るんだ」と何度も言っていた。ちょっと遅かったとも言っていた。
水谷さんの絵が変わったと思ったのは教えるようになってからだ。カルチャーセンターの先生をやるようになって、変わった。絵に客観性が出てきて、人にも伝わるように変わり始めた。そのときは、もう70ぐらいだから、すごい事だ。普通の絵描きは50過ぎると、だいたい絵は悪くなる。めったに良くなる人は居ない。もしかしたら、水谷さんが本気で絵と向かい合ったのは、70過ぎてからだったのかも知れない。
教えて、学ぶ、というのは簡単なようで難しい。水谷さんが謙虚でやわらかな人だった、ということだろう。きっと葬儀に行けなかった私のことも、しょうがない笹村だ、と許してくれていそうだ。