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笹村 出-自給農業の記録-

水彩人の私絵画の作家たち

   

 

先日書いた時に、水彩人の私絵画の作家の名前を上げさせてもらった。その時考えてみた人たちの、絵のことをすこしかいてみい。その人たちの絵のことを考えることで「私絵画とは何か」ということがはっきりするかと思った。出品されている絵のことを少しづつ書いてみたいと思う。

まず、松波照慶さん。多摩美時代のあだ名が博士だったそうだ。芸術全般に博識である。理論派である。研究家である。同時に気まぐれでもある。私の3分の1くらいは松波さんで出来ている。

今回、初めて水彩画を描いたと思う。色彩の調子と形で、世界の肌触りがさぐられている。今回の絵は日本のロスコーである。世界は深い。水彩の色彩の微妙さが、重複されてゆく中で、松波さんの世界に浸透してゆく。画面の中に揺らぎがある。波動のようなものが起こり画面の外に伝わる。

北野喜代美さん。雨の絵である。もちろん雨でなくてもいい。前回は雨の中にいる自分の世界を描いたが、今回は雨を見ている自分を描いたと言われた。見ていると、中にいるの違い。実に面白い。

北野さんの絵が、私絵画化しているなとおもった。この人にとって絵を描くという行為が重要なものになっている。この自分との関係の抜き指しならないものこそ、私絵画なのだと思う。雨の降りしきるだけの世界に向かい合っている。

それを描くことで確かに生きている。それだけなのだが、静かな深い視線が画面に行き渡っている。力が抜けている。何かのテーマを描こうというよりも、雨を描く自分の行為が重くなっている。そこに生まれた共感の世界は、底がないほど深い。

松田憲一さん。今回の研究の仕方こそ、水彩人展である。結果よりも研究を評価したい。自己否定の、苦しかったと思う。自己探求がある。松田さんは日動展などにも出したことのある友人の中では活躍した作家である。コンクールなどで時々見る人だった。

その松田さんの今回の絵は驚きでもある。こんな絵を出してもらえたことは、私には大きな刺激になった。水彩人展があってよかったと思う。27年の成果ではないか。結果よりも研究をたがいに大切にしよう。

自分と絵の関係を探っている感じがする。描くということを確認しているのではないか。意思を持って、線を引くということをやらないでいた人が、自分が意識して引いた線が、絵に入るのかを、模索している。この自分という人間が意思を持って引こうとしている線こそ、「私絵画」ではないか。ダメだなぁーと思える枝の線にこそ、松田さんがいる。

辰仁麻紀さん。きらびやかなデザイン的絵画を描いて居た人である。構成力があり、華やかな、都会的な世界を感じさせる絵の人だ。新しい次の時代の人を感じさせてくれていた。ところがその人の世界に、突然と言っていいと思うのだが、内的な世界が漂い始めた。

いわばボナール的な世界だ。ボナールがデザイン的な仕事から、展開したことを思うと、ある種の共通性を感じた。極めて美上で、浅い塗り方の中に水彩画がある。これほど甘い哲学はあるだろうか。

極めて複雑な思いが込められている。いわば涙の後のような姿である。過去見た犬で最高の絵だ。まさかこんな展開をしてくれるとは思わなかった。そう前年、全前年と研究をしていた。それが今、私絵画として花開いた。

山下美保子さん。塗りこめている。ひたすら塗りこめている。初めからそうだったのだが、その塗りこめ方の中に、自分というものとのつながりが出てきている。絵は千一本引くにも技術的な裏図家がいるものだ。

山下さんがこの絵では現れた。絵は完成しているわけではない。また明日から、この続きを描くのだろう。そう永遠にシジホゥスのように、坂を落ちながら。何もかも絵というものを置き去りにして、かまわない。

苦しんでいる。描く苦しみがある。絵ができないから苦しいと口では言うし、考えているようだが、実は全く違う。生きることの苦しみが、絵を描くことに現れているに違いない。そいう内面を見せる人ではないのだが、見えない重さがあると、絵が語っている。尊敬できる制作態度である。

西凉子さん。何気ない絵であるが、ところがこの絵の中には物語が語られている。自己確認のような物語なのだろう。内側に入り込んでゆく。渋い味わいのある色彩の中に、寡黙な西さんが存在する。見る人は勝手にしてくださいと語っている。

その色にふさわしい素朴な線が現れる。この何気ない線の中に、人間が現れている。不思議なことだと思うが、それが私絵画というものの根底にあるものだと思う。意識しているのは自分というものの進化なのではないか。

相川恵美子さん。私絵画であるにもかかわらず、絵画しようとしている。この逆説のような制作態度が、むしろ自分を探ることになっている。そうした行為も私絵画の一つの在り方なのかもしれない。

今回色々なものを切り捨てた。混乱した何かに結論を出そうとしているのかもしれない。つまり絵にしようとした。ところがこの人の中にある政策という行為への執着が現れる。つまり言ってみればゴッホである。絵にしよう絵に使用で、自分の制作にのめりこんだ。

この選択は自分へのある意味裏切りになっているかもしれない。しかし、自己探求ということは、こうして揺れ動いてゆくものかもしれない。一途でない。行きつ戻りつである。成果もない道筋である。

金澤三枝さん。一つの思いの世界がここにはある。言葉にはならない、感触のような、肌触りで伝わってくるような、悲しみの共感というようなものか。この重さは絵を描くことで、浄化するような感じかもしれない。

下手な絵ではある。絵作りのない絵である。下手でも絵は構わないということがよく分かる。ヘタウマという訳でもない。しかし、そうしたことなど、超えたものが絵を支えている。絵はうまいことなどとは関係がない。

自分の中を探れば、つまり人間の中に何かがあれば、描き続けることで現れる。描くということが、この人ほど行為になっている人は珍しい。描くことでこの人は、やっと生きているのではないかと思える。

菱沼恭子さん。暖かさの波長が発せられる。これも私絵画の希望一つの事例だろう。ただそこに自分の心地よい感覚を置こうとしている。確かに絵はそれだけでいいのだろう。作者も十分承知のことだろう。あえて、よいことだけを積み重ねようとしている。

見る人が温かくなる絵。絶対善の空間を求めているのかもしれない。実はその政策は、実り少ないものになりがちである。苦しみの重さの方が絵になる。そんなことは無意味だとわかっているに違いない。

真昼の野良の健康な宮沢賢治の世界。花巻の短い夏。まばゆい北国の夏。柔らかい光が満ちる。イーハトーブの野良の空間。今下の畑にいますのでという声がする。色の重なりから空想が広がる。これも私絵画だとみている。

仁田亮さん。なかなか深い絵だ。この人の絵には、一つの自己探求がある。自己探求の方法の一つに描くという行為がある。それだけだということが分かる。水彩人についに私絵画の新人が現れた。27年間やってきた成果ではないか。

4点出品されていたが、どの絵もその人が語られていた。もし4点飾られたとすれば、さらにその世界観が現れるのだと思う。会員になってくれて、4枚の絵が見せてもらえるようになれば、互いにどれほどの刺激になるのかと思う。

水彩人がそうした、一年一度の私絵画の作家が出会う場所でもいいではないかと思う。どうすればそういう場になるのかは、水彩人を立ち上げ、27年間やってきた私に考える責任はあるのだろう。水彩人も大きくなりすぎたのかもしれない。

高見洋子さん。品格が高いまさに水彩画。その静かな空気感に世界がたたずんでいる。この静謐な世界を紙の上に表すことになる。余計なことができないことが分かる。余計なことをすれば、この微妙過ぎるように成り立っている世界が崩れてゆく。

できるのか、できないのか。消え入りそうに危うい。その危うさも絵を描く人の息遣いになっている。ローランサンの絵を育てるためには、余計な言葉はいらないと、仲間たちの暗黙の了解だったという。

弱い絵が何故ダメなのか。淡い水彩画が何故ダメなのか。途中のような絵が何故ダメなのか。高木さんの絵を見るとそうした先入観が消えてゆく。これは絵ではないと言われても、確かにここにこの作者の世界観がある。

きっと公募展に出さない私絵画の人はかなりいるのではないかと思う。自分の絵が「私絵画である」とういう自覚もないのだと思う。美術評論の人たちが、私絵画の広がりを取り上げてみてもらえないかと思う。

 

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