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笹村 出-自給農業の記録-

未来美術館

      2025/09/08

筋肉が流行している。「筋肉は裏切らない。」などという金言までできた。一種のルッキヅムなのだろう。筋肉と健康は関係がない。見た目重視は内容のない停滞社会では起こりそうなことだ。自分の身体を作り上げる情熱なのかもしれない。

筋肉などわざわざ強化するようなものでは無い。自己鍛錬がおかしな方角に進んでいるような気がする。とし寄りは筋肉が落ちて、代謝量が減少するから問題だと脅かされる。畏れる必要はない。ゆっくり動いて、必要な筋肉がつく生活をすべきだ。

歳をとり筋肉が減少して、肉体が衰える。これは暮らし方がおかしいから起きたことだ。暮らしの方を変えるべき表れである。筋肉体操を取り入れるのは違う。良い暮らしをしていれば、必要な筋肉が減るようなことは無い。

精神の問題である。呼吸法や精神統一などの心の問題として、自らを鍛錬してゆくべきことではないか。年寄りが、筋肉運動など見苦しいし、身体を痛める原因になる。人間はあくまで自然の一部であるというのが東洋思想である。

体操というと、軍隊式体操が明治以降奨励されたのだ。国民皆兵であり、国民を武力として考えて鍛えようとしたのだ。とんでもないことだが、帝国主義というものはそういう了見の狭いものなのだ。その明治帝国主義は一掃されたはずだったが、何故か、東京オリンピックでまた筋肉体操が復活した。

筋肉主義から話を始めたのは、反知性主義批判を書こうとしてのことだ。まだその先のことを書くつもりだ。「私絵画」は下手をすると反知性主義と受け取られかねないと考えられる。言葉として認知されていない「私絵画」であるから、その批判も当然ないのだが、身体で絵を描く世界は、まるで反知性主義ではないか。

そうではないということを、改めて整理しておかないと自分が困ると考えた。むしろ、見るという視覚という肉体的感覚よりも、記憶という脳の中の映像を重視するということは、反肉体主義ではないかと考えている。

見るということを重視する写実は、人間をカメラ化するということではないか。そのカメラ機能は、AIを活用して自由に変容もできる。どう変容させたところで、あくまでこれは肉体機械化ということになる。

「いや、私は写真では取れないほどリアルに描くのです。」という人がいたが、そうですか。ご苦労さん、芸術の意味は感じませんというほかない。しかし、超写実絵画は増加している。特に中国では流行だ。芸術のない国ではリアルだけが注目される。レーピンの時代のロシアも同様であった。

日本でも芸術としての絵画が失われ、芸術を見失い、超写実絵画が流行した。しかし、それもしばらくの間のことだ。絵画は出来上がったものとしての意味を失うことになる。すでになっている。

それ以上に、人間にしかできない、絵画する「行為」としての意味が見いだされる。「私絵画」は、コンピュター革命後の世界での芸術の在り方である。描かれた絵が社会で意味があるという芸術から、描くという行為に重点が移る。描くという行為はAIとは関係がない。描くという行為からくる充実のようなものが芸術的行為の意味になる。

行為の結果として残された絵画は、社会という単位では意味を持つことはないだろうが、細い細いつながりで、どこかの誰かにつながることはあるだろう。それは社会全体に影響を耐えるような芸術ではないだろう。

次の時代はそうした個の小さな行為が、孤立した個につながる糸になるのではないか。新しい人間関係が生まれるはずだ。だから、あくまで個人の人間の中で、人間とは何かを探求することが、芸術の意味になるのではないだろうか。

たまたま、芸術としての絵画が消え去る時代に立ち会うことになった。そのなかで、絵を描くという行為が、好きでやめられないで、日々一枚を描くことになった。そこに自分の生きる充実を感じて生きている。

社会性のある絵画を捨てることで、自分にとって意味のある絵画を見出すことができた。絵を描くという行為に、自分が日々確かに生きるということを見出すことができた。自分の精神の躍動を絵を描くことの中に見出すことができた。

この自分の行為がどれほどむなしいものであるか、と何度も考えた。しかし、どこかに細い他者とのつながりがあるはずだと、探求を続けてきた。その中で、絵画芸術が社会的な意味が、いまだにあると考えている人たちの蒙昧にあきれ果てた。現実に絵画は社会という意味では、社会に影響を与えるというような意味はなくなっている。

反筋肉主義では、絵画を描くのは、肉体ではなく脳だということを意味している。精神の活性化として絵を描く。自分の中にある世界と、自分を取り巻く世界との関係の探求として絵を描く。それが次の時代に行われるだろう。「私絵画」の世界だ。

こうした美術に関する意見は、今のところ見当たらない。しかし、実際の絵画制作はすでにそういう所に進んでいる。多くの人が、すでに私絵画の制作を始めている。水彩人の仲間でもそういう人がいる。しかし、社会はそのことに気付かづ、通り過ぎている。もったいないことである。

日本では何万人も絵を描いて居る人がいる。そしてその絵は廃棄されている。美術館で収蔵したとしても、どこかの倉庫にしまわれているだけのことだ。展示されるようなことはまずない。現物の絵画が未来に展示される人は、極めて少数の人だろう。

未来美術館を作る必要があると考えるようになった。消えてゆく無数の私絵画の作家を残してゆくことだ。残すためにはコンピュターがある。ここにデーターで永遠に残す。残すことで、現代に絵を描いている意味が記録されるはずだ。

これは、事業として成り立つはずだ。死んでゆく無数の絵を描いている人たちは、今画集をせめてもと残す人が多い。しかし、次の時代はものが残る、画集の時代ではない。データーとして正確に残すことに意味がある。どうだろうか。

データーで残しておけば、時代が変化し、誰かが見つけ出す時代が来る。作品の検索はいくらでも多様にできる。自分の好みの絵を未来美術館で、探り当てることは難しいことではない。世界中の現存する絵画を収蔵してゆけるだろう。

そして、そのデーターは限りなく精密なものがいい。どうしても現物を再現する必要があれば、肉眼では判別できないほど正確に再現できる技術が遠からず生まれるはずだ。そうした写真撮影班も必要になる。よほど大きなデーター庫も必要になるだろう。

この構想はだいぶ前から考えていた。しかし、今まで人には言わないできた。こうして書けば、すぐやってみようという人が現れ、盗まれると思ったからだ。実際にやる場合には、まだいくつかの準備すべきことがある。私にはそんな暇はないのでやれるわけもない。

未来美術館はいくつあってもかまわないのだろう。だとすると、本来であれば、文化庁が主導して、国立未来美術館を作ることが最善だろう。そして希望者はすべて収蔵する。そして、撮影チームを作り、その実費は希望者からいただく。

次の私絵画の時代には、必ず必要になる文化事業になるはずだ。膨大な絵画資料の蓄積の中から、次の芸術の方角が見えてくる可能性がある。たぶんその資料の山の中から、誰かが何かを見つけ出すことになるだろう。

しかし、国はやるとも思えない。国は文化芸術が変わろうとしていることに気付いて居ない。国には芸術の衰退後の美術界の硬直化が見えないのだ。大した費用が掛かるわけではないのだから、そのことに気付く政治家がいてもいいと思うのだが。

 

 

 

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