絵を描いている時のこと

絵を描いているときのことを思い出して書いてみる。ほとんど無意識状態で、色々の反応をして描いているようだ。無意識と言っても感覚的には集中していて、絵を描くだけになっているために、考える能の方は働いていないような気がする。
描き初めの見ていると画面は、たいていの場合力なくドロンとしている。なんとなくここは違うようだという感覚がする。ここはこの絵の方向だという所もある。全体としては自分の向かうところと違うなと言うところばかりという感じだ。
その絵の向かうべき所からすると、調和していないというような感じではないかと思う。何を、何故違うと感じるのかは重要だと思うが、明確にすることは出来るかどうかわからない。自分であるという所に進みたいと思っているのだが、自分であると言うことが、つかみ切れていない。
それでもこの方向では無いと言うことだけは感じるのだが、ではどうすればその絵の向かうべき所へ進めるのかは、大抵は分からない。そこで、一番これははっきりと違うなと言うところを、たぶんこっちだなと考えるように変えてみる。
分かって筆を進めるわけでも無いのだが、ここは確かに違うというところが次々に画面にあらわれてくる。この違うところをともかく手を入れている。手を入れ始めると、次々にこうしたらどうだろうか。それならこちらはこのように変えるべきではないかと、次々におかしなところが出てくるので、手を入れてゆく。
それが一通り進んだところで、筆を止めて絵を眺めているだけにする。本を読んでいたり、当たりを眺めていることもある。散歩を一回りしてくることもある。そうして、また絵に戻る。すると、またどうもここは違うと言うことが感じられる。
この違うという所は反応するようにまた、次々変えてゆく。そうしている内に何かカチッとぶち当たることがある。どこか画面が精彩を放ち始める。画面が立ち上がるというか、画面の方が自立して、主張し始める。そうなれば、その勢いに従い、その立ち上がった方向にさらに従う。
すると、またその活力が失われる。そっちでは無いと言うことが分かる。それではこっちかと、さっきの活力のある方向を掘り出してゆく。思いついたことは、絵がダメになろうが、悪くなってしまおうが、一切気にすること無くでどんどん変えてゆく。絵は中途半端なことでは無意味だから。
完成を求めて絵を描かない。こうかもしれないとどこかで感じたことはすべて試みてみる。そうした結果始めたときよりどうしようもないものに成ることが多い。それでもたまたま、思いも寄らない。考えてもいなかった素晴らしい世界に導かれていることが、たまたまある。
こうしたことを日々、繰返し行っている。その結果として進んでいるのか、後退しているのかさえ、時運ではまるで分からない。分からないが、とにかくやってみることにしている。どこに行き着けるのかも分からないし、まったく無駄なことかもしれないが、現時点では絵を描く行為を一番重視している。
座禅と一緒で、事の成否は考えない。行なうということ、描くと言うことだけを考えている。日々描き続けることで生きると言うことの意味に行き当たるという思いである。人間が充実することがあれば、それが絵に現われてくるはずだと考えている。私絵画というものはそういう物ではないだろか。
描き出すときは、描きたい何かが見えているので始める。色を置いてゆくこともあれば、ものの配置から描くこともある。一カ所の細部を描くことから始めていることもある。どう始めるかはその時々で、状況次第で一定では無い。興味を惹かれた事を画面に写すと言うことになる。
描き初めは色に触発されることが多い。何か形に惹かれて始めることもある。描き始めたときは目の前にあるものなのだが、いつの間にか記憶の中の風景を描いている。その意味では随分あちこちで風景を描いてきたものだと思う。見ているだけでは、絵を描けるところまで覚えていることは無いだろう。同じ場所で何度でも描いて、頭の中に風景が焼き付いている。
進め方もその都度都度変わる。目の前の風景を記憶の中のその場所として描いていることも多い。何故かそうなるので、今はこのやり方のままでありたいと思っている。それが一番自分に近づける方法のような気がしている。そう自分というものを探って描いているからだ。
興味を惹かれた事を追って描いていると大抵どこかで、興味を惹かれていた何かが、絵の上で行方不明になる。何だったのだろうというような、不明瞭な意識になる。分からないままに描くことは無い。
分からなくなったところで止める。ここが難しいところだ。最初に興味を持ったことで、終わりまで行けることも無いわけではない。どんどん次の扉が開けてきて、最初にこれだと思えたことを追い続けて、最後まで行き着けることも無いわけではない。
この終わったという意識がどこから来るかというと、絵が立ち上がって強い生き生きとしたものになる。何故そうなるのかは分からないが、画竜点睛では無いが、一つの点を入れたことで、とつぜん絵が終わりになるというような感覚に近い。これは錯覚なのか本当にそういうことなのかは、どうも意識上のことなのでもう一つ分からない。
その絵の結論が出たというような感じである。本当にそうなのかどうかは分からなくなっているのだが、描き始めるときに惹きつけられたものに到達した感じだ。そこまで行けることがいつもあるとも限らない。つまり大抵は絵は終わらない。
終わらないから、途中で止めてアトリエに吊しておく。これは自分としては納得が行くと考えている絵と並べておく。人の絵という意味では菅野啓介氏の絵も一枚だけかけてある。いつも絵を意識してみているわけでは無いが、とつぜん何かに気づくことがあるので、眼に触れるようにしてある。
するとあるときそうだこの先はこうではないかと、何かが見えてくることがある。そこでまた現場に持って行きその先を描いてみる。それで出来ることはやはり少なくて、何度もおなじことを繰り返すことになる。だから、一枚だけを描いているわけでは無い。
この現場とはその絵を描き始めた場所というわけでも無い。違う場所でも一向にかまわない。見ていない場合も多い。それでも風景を見ながら描く。絵を見ながら風景を見ていると、その絵の先が見え始めることが多いのだ。だから外の世界を見ながら絵を描いている。
読み返してみると訳の分からないような事をだらだら書いているようだが、確かに最近の絵を描くときの心境の断片はこんな事だと思う。10年経ってこの文章を読めれば、その時に少しは分かることかもしれない。どこから来て、どこに行くのか。