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笹村 出-自給農業の記録-

自分から離れる

   

絵を描き出したところ

自分から離れると、自分が時々出現する。自己表現などと意識している間は、自分は現われない。60年間かかったがやっとわかった。自分が、自分がと、自分の絵を求めてきて、そのことが分かった。自分の絵から離れて、一切自分のことを考えない努力をするように成って、自分の絵らしきものが、見えてきた。

自分の絵から離れると言うことは、なかなか難しかった。子供の頃から、70年間は絶え間なく絵を描いてきているから、人まねの積み重ねで、自分の癖のような絵が作られている。それを何となく自分の絵だと思い込んでいる。それが違って居ると言うことに、気づくことが出来なかった。

石垣に来たことで、心機一転することが出来た。今までの自分から離れることが出来た。場を変えることで、自分という束縛がほどけた。石垣という違う風景の中で暮らすことで、新しい絵の面白さが見えてきた。この機会に自分を捨てようと、自分から離れ、白紙になる決意をした。

自分らしい絵というものは、すり込まれ事物によって、人が描いた絵というものから、絵らしきものが培われている。それは大多数の人がそうなのだろう。生きている間に、徐々に形成されたようなものだ。何となく描いている絵が、自分の絵だと思い込んでしまう。

しかし、それが自分の絵かと突き詰めて行くと、そこにあるものは自分が描いたものではあるが、自己存在を示すものではないと言うことが出てくる。確かに他の人が描かないような特殊な絵を描く人も居るが、それではさらに自己表現から遠ざかることになる。ただの目立ちたがりのようなものだろう。

自分というものはあるようでない。ないようである。実に頼りないものだ。自分というものを感じるのは、生きている、そして死んで行くと考えたときだ。その生きていると言うことの実相を深くたどると、生きている自分がいることに気づく。

つまり自己表現とは、自己が確立されていなければあり得ないことなのだ。子供の絵が素晴しいという意味は、自己表現とは無関係のことだ。子供の無心が反映しているという意味はあるが、絵の中に世界観がなければ、表現ではない。

と言ってもその気づきは、不明瞭なもので、呼吸をしている。心臓が動いているという意味では、確かに自分という命が生きていると分かる。それ以外に自分はないと言うことも分かる。この命ある自分が、何を考え何をするものなのかとなると、また自分の有り様はよく分からなくなる。

そこで、只管打坐があるのではないか。何も考えない。ただひたすら座る。その無意味な行によってのみ、安心立命に至る道があると言うことは、想像が出来る。ただそのあまりの無意味になれという行に、私という自我は耐えられなかった。

絵を描いていると、図案的なものとか、模様的なものが出現する。たぶん意味論的に言えば記号なのだ。記号化されているもの変えになると言うことがある。記号化され風景と言うものがある。例えば田んぼで言えば、田んぼの田の字である。樹木であれば、木であり、林である。

漢字という記号は実によく出来ている。具体的味物を記号化して、普遍化して、文字という意味を表した。これは中国人の英知である。漢字を生み出した中国古代の人は素晴しいと思う。私の考えて居る絵は、風景という漢字を作るようなものだと考えて居る。

誰が見ても、そらの絵だ。海の絵だ。草原の絵だ。山の絵だ。田んぼの絵だ。と伝わるような図像にしたい。漢字以上に自分の絵で伝わるように描きたい。ああこれこそ花だ。そうある人にだけは、伝わるような絵であって欲しいのだ。ある人とは心が通ずる人だ。

だから、「うみ」という絵の題名は、自分としてはいつも「わたしのうみ」と言う意識だ。「わたしのそら」「わたしのかわ」と言うつもりで描いている。「わたしのはな」すべての花というものの意味を集約したものである。だから何という名前の花というものではない。

時々この花は何の花ですかと言われることがある。絵は浅い意味の写実で、花の種類が分かるような描き方が、半を正確に捉えていると理解している。ところが花というものはそれだけのものではない。花の総括する世界観まで花で描こうとする。種類など私には無関係になる。

白いハイビスカスであるのか。白いブーゲンビリアであるかなどどうでも良いことで、「しろいはな」と言うことで十分である。しかし、底に描かれた花は、花というものが持つすべてを総括していて欲しい。バラにはあって、百合にはない。と言うような花ではない。

バラにも、百合にも、ハイビスカスにも、ある花というものの世界を捉えたい。そうなるとその花の品種としての正確さを、ボタニアルアートのように表現するのは絵ではない。それはイラストとしての説明である。私が描きたい絵の世界とは、異質なものになる。

風景を描く場合。田んぼが田の字であればそれで良いのだが。私が描く田の字になっていて貰いたい。それが書道だろう。ある意味では新しい象形文字を作っているようなものだ。象形文字と違うのは、風景という全体像を、画面全体で表現していると言うことになる。

色彩のことがあり、形のことがあり、線のことがある。すべてが総合されて、目の前の風景は出来ている。この全体像を絵というものに象形化したい。私の図像として象形化しようとしている。その文字は、世界が多様であるために、何万種類にもなり尽きない。

そうして描こうとする世界は、自分というものから離れて図像化される。そうでなければ、象形の図として人に伝わることにならない。自分が作り出すものになるためには、自分から出て行かなければならない。自分と人との間に象形の図は存在する。

自分という個から離れない限り、普遍に近づくことはない。自分から離れて雪ながら、人間としての自分に入って行かなければならない。そうでなければ人との間につながる、普遍には近づけない。だから絵は個別的な表現でありながら、共通の世界の探究でもある。

だから、絵は形式化することがない。図像として繰り返されることはない。もし図が繰り返されるとすれば、そこには制作する、つまり新しい図像を想像するという行為がないと言うことになる。絵は常に新しい図像の発見を求め続ける行為のことである。

その絵というものの発見は、自分の創造的行為である。何かも見つけると言うよりも、他者と自分との間にある図像を作り出すという行為である。ただ無心にな絵を描くという行為の背景にあるものを分析的に考えると、「私絵画」における絵の意味になる。

以上のように考えて描いているわけではない。そういう理屈も一切なく、ただ無心になるように描いている。ただひたすらに描くことで近づく世界は、あえて分析的に見ると、こうした行為になる。今時点での描くと言うことの意味はこういうことになる。

それが実際には、今描いたような大脳で考えたことは捨てて、反射的に小脳で描くと言うことになる。それが只管打坐の行になる。ただひたすら描くだけになる用に、繰り返す。何を描いているかも考えず、湧いてくる何かに従い画面を埋めて行く。

どこかの段階で図像が現れ始めて、ああそうなのか、今はそれを描くのかと気づく。そして現われた図像も求めて試行錯誤を始める。具体的に画面を描くときには、何を描くと言うことは忘れる。花をかいていると言う意識は捨てて、その画面に出現した、白と緑の反応の美しさを求める。

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