描くことで、書くことで、しか進めない

   



 絵は描いて見ない限り何も分からない。頭の中で絵を想像するというようなことは、したとしても意味が無い。画面に対面して始めて絵が始まる。何もないまっさらな画面を前にして、その時思い浮かぶ何かから始まる。富士山を描いてみようかとか、那智の滝を描いてみようかと始まる。

 この色を塗ってみようかとか、こんな線を引いてみようかなどという思いつきから始まる。描き始めてそれが石垣島の海原の絵になってしまったり、海に浮いている仙酔島になったりする。前に途中まで描いて止めていた絵を見て、始まることもままある。とにもかくにも絵は描いてみない限り何も分からない。

 描いた何かから誘発されるように次々と展開されていく。それは自分の意志というようでもない。何かににヒキヅラレたぐり寄せているような感じである。感覚にしたがうと言うことでもあるのだろうが、感覚的と言うこととは違うと思う。

 描くという行為に意味がある。描くことで自分という存在に触れようとしている。自分の中から起こる反応に委ねる。自分の中の何かが動き出す。画面と自分が反応を始める。自分らしいというものに向かってどこか自分とは別のものの衝動によって進もうとする。

 まあ、描いてみたからと言って何かが分かると言うほどのことも無いのだが、描いてみると少し自分の中のものは、こんなものなのかなと言うことが感じられる。それでもいつももう少し違う。だから、もっとえぐり出すように描いてみたくなる。目の前にある半端な絵が違うと言うことだけは分かる。

 違うのだから、違わないものに向かって闇雲に思いつく事を描いてみる。すると一歩肉薄することがある。何故そうなるのかは分からないが、前の状態よりは自分に近づいたような気になる瞬間がある。あとから見ると、それは錯覚という場合が多いのだが。

 ともかく思い込みでも何でも描いて見て、少しだけ分かることがある。分かったことを今日の一歩として、あしたはあしたの1歩を探す。描いてみるのは魔力がある。わずかな一歩でも、自分の一番大切な根幹にたどり着く一歩のように感じられるからだ。

 絵を描くために生きているのだから、しっかりと生きたというような喜びが絵を描くことから湧いてくるのだ。こんなことは描かない限りえられないことに違いない。絵を描きながら生きてきて良かったと思うときである。絵があるとき立ち上がる。この感覚に達すると自分に触れたような喜びがある。

 なんとなく何故ブログを書くのか、そして何故絵を描くのかと言うことが少し見えそうな気がして、今日のブログを書き始めている。ブログで文章化することで、自分のやっていることが確認できる。絵を描くことも文章化して方向を確認している。これはブログを書く、恩恵である。

 のぼたん農園のことも、ブログに書きながら計画を練り直している。ブログに書くことで計画が見えてくる。3番田んぼまで今年の作付け計画に入れられるなと言うのも、書いていて気づいたことである。内心では4番田んぼと道路まで土木工事だけでも行けないかと言うことすらあるが、これはまだ書いていない。内心無理かもしれないという迷いがあるからだ。こういう迷いが、書いている内に判断がつくことになる。

 動禅体操が毎朝出来るのもブログに書いたからだろう。こう今書けば、さらに継続の力になる。ところがこのところは前半だけになっている。一万歩以上の農作業が続いているので、前半のスワイショウ、八段錦、太極拳、立禅。これで終わりにしている。この言い訳をここで書けば、どこか安堵する。

 別段書いたからどうと言うことでは無いはずだが、書くとやはり違う。精神安定の作用がある。励ましの作用にも成る。計画の精査になる。書くことで助かることが色々ある。願掛けで継続しているつもりなのだが、どちらかと言えば、書かずに入られない状態にはまってしまったのだ。

 ブログというものは20年前ぐらいに始まったものらしい。そして、今徐々に廃れ始めていると書かれているものがあった。新しい様々なものが登場しているから、ウエッブの方法としてにはもう古くさいものと言うことらしい。私には十分である。社会的な発信になると思い始めたのだが、むしろ自己確認のためになっている。絵とまるで同じ経過だ。

 始めたときには文章が上手になるのではないかと思って書いていた。中学生の時に、志賀直哉のような文章家になりたいと思ったぐらいで、文章が上手になりたいという思いは無かったわけではない。大学の時の友人の檜枝岐出身の大山さんが文章を毎日書いて小説家になる訓練をしていた。そのことが頭に残っている。結果はどうだろうか。

 毎日書いて、昔より少しはましな文章になっているのだろうか。文章が上手になると言うこと自体が、今では馬鹿げていると言うことに気付いてしまった。当たり前の事だが、書くべき内容があるのかないのかである。願掛けだから、一日も休まずだから、書くべき内容の方は大目に見て貰うほか無い。

 日々の一枚である。絵の方は願掛けでも何でも無い。そのために自分という人間は生きているのだ。描きたい絵を描くことに生きている。他のことは絵を描く為に必要なことなのだ。ブログを書く、のぼたん農園を作る、動禅をする。生きるのすべてを絵につなげて考えている。

 結果主義なのだ。その結果絵が良くなったと言うことが無ければだめなのだ。よくなるというのが分からないところが難しいが。自分が決めることなのだ。自分の中の確信が絵の前進を認識するかどうかである。自分という奴はなかなか手強い。いつも猜疑心に満ちていて、傲慢である。

 絵は描いてみなければ分からない。描くことで始めて立ち現れてくるものだ。絵は描き終わったもののことではなく、いつもこれから描く絵のことなのだ。問題となる絵はいつも次の絵だ。自分の絵と言えるものに近づいているかにあるのだから、次の絵こそ問題だ。

 それは言葉にすれば、楽観ではないかと思うようになった。言葉にすると言うことは共通概念にすると言うことなのだろう。といっても私絵画と言うことも造語である。ここで書く楽観も少し一般的解釈とは違うと思っている。安易に考えるでは無く、楽しく観るという意味である。

 楽観は人間の根源の希望である。生きることを明めて、観ずる楽しさである。言葉は便利なもので、遠回しに色々書くことが出来る。絵は楽観が宿らなければならない。画面を通して伝わらなければ始まらない。 そこまで描けているかと言えば、描けていない。次の絵で描いてやるといつも思う。

 描くことでその世界に進んで行けると確信している。日々の一枚である。楽観に生きるとは希望を持ち前に進めると言うことだ。石垣島の海を観ていると、どこまでも明るい。この明るさは自分の中で希望のように見え始める。この海を描いている。

 

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