のぼたん農園のロゴマークが出来た。

のぼたん農園のロゴマークが出来た。石垣島のデザイナーであり、のぼたん農園の仲間である。丸岡さんが作ってくれた。プロの仕事であるから、本来は費用をお払いすべき事ではあるが、仲間の一人なので、ご厚意で作っていただいたことにさせてもらった。ありがとうございました。絵をお礼に差し上げたい。
水牛にのぼたんの花飾りである。石垣島の自給農園らしい素晴らしい旗印が出来た。伝統農業を行うのぼたんの咲く農園である。明るい展望を感じさせるデザインだと思う。まさに楽観を感じさせる。やはり楽観の何かがみんなに伝わっている。水牛の優しさとアジア的エネルギーが伝わってくる。
自給自足生活は大変である。そんなことは当たり前だ。大変だからこそやり抜きたいという人は居る。こんなことをマークを見て書くのは大げさだと思うかもしれないが、そうではない。若い人が、お金にもならない自給生活に進もうというのはよほどのことなのだ。
そういう若い人達が登場してきている。いっしょに冒険に乗り出せるというのは人生の幸運ではないだろうか。私の自給生活の中で蓄積してきたものをすべて出し尽くして、なんとしてものぼたん農園を作り上げたい。すでに手こぎボートで太平洋横断に船出している。
そしてその思いに共鳴してくれる人が、石垣島に増えている。たぶん日本中で誕生している。人間はなかなかのものである。その小さな舟の旗印が出来た。楽観の言葉よりも分りやすく、いかにもアジア的な水牛にのぼたん。石垣島で自給体験農園が始まっている。楽観して次の時代に乗り出している。
のぼたん農園探検隊は順調に滑り出している。苗代には種が蒔かれ、わずかに芽が出たところである。良くここまで来れたものだ。蒔いた種にこれからどんなことが起こるか。当たり前に生育して普通なのだが、その普通をなんとしても確保するのが、水先案内人の役目だ。
絶対に成功させると意気込んで始めた冒険だが、それだけに出来なかった時には、どう責任をとれば良いのかということが、なんどか頭をかすめた。しかし、楽観である。これだけ日和見して、石垣島に来て以来迷いに迷った。あらゆる事を想定して始めた冒険である。これだけは何とかしなければならない楽観の思いだ。
天水田というものの経験は無かった。これが一番の不安だった。雨水をうまく回して耕作する田んぼである。頭の中ではどういう順番で代掻きを進めるかを、何度も様々な手順を想定して繰り返した。雨を待って代掻きを始めると言うことだけは、決まった始まりになる。
そして待ちに待った雨が降った。朝から、仲間に呼びかけた。コロバシャをやるので来れる人は来て下さいと呼びかけた。みんなが集まってくれた。ここなのだ。仕事をしている人は来れない。そうしたことを分かった上で、頑張ってくれる人が居て始めて出来ることだ。
前夜の強い雨の翌日、一気に水牛コロバシャを開始した。6m幅は水牛コロバシャが回転できる幅である。予測通りうまく水牛は回ってくれた。田んぼは少し深くなっている。原因は田んぼにした土地自体が、傾斜地で削るところと盛るところができてしまうのは仕方がないところだ。
みんなで交代しながら、ほぼ参加者全員がコロバシャをした。女性の方もやってくれた。大変だったが良い体験が出来たとおもう。水牛との付き合い方がみえてきたと思う。伝統農業の良さである。ワカバもどこかほこらしげな一日であった。
のぼたん園のマークを観ると、気持ちが高揚する。アトリエカーの窓にも張った。なんとしても頑張ってやり遂げようという気力が湧いてくる。農の会を始めるときに、地場・旬・自給と言うことを考えた。今回ののぼたん農園でそのことを考えると、楽観・地場・自給である。
旬は石垣島にはない。旬の代わりに楽観がある。石垣島の景色は楽観そのものだ。人間が生きてゆく最低限の確保である。食べるものさえ確保できれば、本当にやり遂げたい人生を生きることが貫けるのではないだろうか。生きるというのはそれだけのことである。それ以外のことではない。
やりたいことを見付けてそれをやり遂げる。そんな人生を生ききることが出来るためには、まず食糧の自給である。自給の達成の奥に本当の安心がある。自分の力で生きる絶対の安心である。ちょっと大げさになるが、楽観がこのマークに表現されている。
のぼたん農園は最初は楽観農園という名前にした。楽観と言うことを考え方の基本に置いて始めたからだ。これからの時代の厳しさを思うと、楽観と言うことを踏まえないと生きると言うことをやり遂げられないのではないかと考えている。
そもそも地球というものは楽観の結論のようなものだ。よくまあ出来たものだ。生命が生まれ、人間が誕生した。その地球を崩壊させようとしているのが愚かな人間どもである。地球のゆったりとした循環を急回転させて一気に崩壊に進めようとしている。
地球に生命が存在するのは、宇宙時間から観れば一時かもしれない。その一時に出会えた生命の幸運を十二分に味わうべきだ。この幸運な時間を少しでも長く保つことが、未来の人間に対する責任だろう。その責任を知る場所が、楽観のぼたん農園である。
100坪の自給の体験。まずその大きさを知らなければならない。伝統農業の意味を知らなければならない。その労働を身体が知らなければならない。のぼたん農園には何の前提もない。あるのはこの先のことだけだ。