楽観という考え方

バンダセルレアが咲いた。花を咲かすことが出来たのは初めてのことだ。タイの花である。山北では咲きづらい花だったが、石垣島では何も特別なことはしないで、直射日光に当てていて花がきた。石垣の気候は蘭栽培にはとても合っている。バンダセルレアの魅力は繊細な水色である。
楽観という考え方はインド的な思考法のような気がする。インドの思想や哲学を勉強したことはないが、そうでは無いかと思うようになった。仏教はインドで生まれた。釈迦は生きると言うことは楽しいことだ。生きる楽しさを自覚しなさいと教えたのではないかと思う。
仏教は日本に伝わるまでに、悲しみ、苦しみの現世からの救済という宗教に変わった。生老病死ということが主題になる。死んでゆくという絶望をどのようにあきらめるか。中国でその考え方生まれたのだが、日本に於いてさらに、日本人の中にある悲観的傾向が強まった気がする。その結果、楽観を安易な考え方と考えるようになった。
日本の歴史の中の庶民は抑圧され、貧困と苦しみの中にいる存在であるという決めつけがある。生きる苦しみの定型化された概念でとらえられがちである。その生る地獄の中にいる人間を救済するのが仏教の教えであるとされる。それが日本人には受け入れやすい、分りやすい考え方だったのだろう。
実際の日本人は、それぞれに楽しみをみつけて生きていた。今もそうしている。日本の伝統文化を見てみればそのことはよく分かる。各地に残る祭りの姿。日本の庶民は陽気で前向きに生きてきたのだ。仏教が権力と結びつき、庶民を支配するのに都合良い思想に変貌させられた側面がある。
本来の釈迦の仏教は明るく、前向きで、楽観主義であった。死という観念まで、悲しいものにはしなかった。生きるもの誰もが仏である。その内なる仏である存在を自覚すれば、生きている今を楽しく充実して過ごすことが出来ると考えたのではないか。
中国の老荘思想が、インドの仏教を受け入れ融合したときに、禅の思想は道という思想になる。修行して仏になるという道筋に重きが置かれる。本来仏である存在から、努力して修行が成就すれば、禅定に至る。むしろ現在の未熟を自覚させる、道。
修行は苦行であることに力点が置かれる。禅の修行は苦しければ苦しいほど価値があるような印象が生まれる。1000日回峰行よりも、2000日回峰行の方がさらに上であるというような見え方。仏教の本来は、日々座禅をすること自体が、楽しく充実したものでなければ成らない。
苦行が無意味というわけではないが、苦しみに力点を置いてしまうところが、いかにも日本人的資質ではないかと思う。インドのヨガの行者の苦行は何か楽しげなものを踏まえている。しかめっ面でやっている分けではない。行そのものを生きている感じがする。
絵を描くことが行であると考えれば、こんなに楽しい行はない。田んぼをやることが行であるとすれば、これほどの楽しみは他にはないだろう。動禅を体操と受け止めれば、こんなにすがすがしい時間はまたとないだろう。行を苦しいものと考える必要は無い。
苦行もあるかもしれないが、楽行だってあり得る。絵を描くこと、農業をすること、動禅をすること。そのこと自体の楽しみを深く感じてそれを行に高めてゆく。何かのために行うのでなく。今そのことを行うことを喜びとして受け入れられるのか。今日一日をどれほど楽しい日に出来るのかである。
人それぞれである。自分が出来ることで自分の一日一日を充実させればいいことである。ここでの楽しいは、決して安易な享楽を意味しない。ゲームをやるのが一番楽しいという若い人が多いのだろう。ゲームの楽しみは本当の楽しみではない。
将棋ばかりやっていたことがある。何故あれほどはまり込んでしまったかと思う。依存症である。今分かることは情けない時間を費やしたことだ。将棋だけではない。ピンボールゲームをやらないで居られなくなったこともある。子供の頃から様々な安易な享楽にはまり込んできた。
30代後半になり、生きることを立て直すために自給のための開墾生活を体験した。自分の体力だけで、自分の食べるものが作れるのかをやってみた。絵を描く事ができなくなり、そこからやり直してみようと考えた。その暮らしを通して、何が充実して生きるためには大切なものなのかが自覚できた。
生きるという楽しみは受動的では、生まれてこない。生きる楽しみは能動的なものである。創造というものが備わるものである。自分が未だかつて無い世界を切り開く。こうした意志に支えられて、創造に生きることを楽しむ。他者によって用意されたものを享受するだけではむなしさは消えない。
自分の力で切り開くからから生きることのおもしろ差が深く成り代わってゆく。面白さには奥行がある。深さがある。今日一日の充実が、その奥にあるものの世界を予感させる。日々の行いの充実こそ目的である。楽しく生きることが目的への道だと感じられる。
生きることの喜びは倍増する。今日がそうであれば、きっとさらにその奥にはいままで経験したことのない楽しさがあるのではないか。これが楽観である。事の成就ではない。行いの中に能動的な喜びを見付けることが出来れば、楽観して事に当たることが出来る。
その達成する世界の想像が自分を努力させることになる。自らの意志で修行をすることになる。希望に満ちた修行であり、苦しみや悲しみから抜け出るための修行ではない。これが楽観だと思う。楽観に支えられた世界は楽しい行動の世界なのだ。努力しているように見えても、背景には楽しみを秘めた努力だから、つらいだけではない。
農作業にはもうだめだと言うほど辛い事もある。嵐の中でも行わなくてはならないこともある。収穫を目指すと言うことはそういうことだ。明日でも良いと言うことは無い。今日やらなければ、収穫できないという厳しさと隣り合わせである。
自給とは、遊びのように見えて、命がけのものになる。自分で作ったものしか食べないと決めれば、自給ほど厳しい生き方はない。お金に関わらないものを遊びだと思うのは、拝金主義の一つなのだ。まず農業技術である。技術を身につけなければとうてい無理である。過去の蓄積を学ぶ知恵が必要である。そして、日々の観察が深まらなければならない。
観察する感性をみがくことになる。明日の天気が読めるようにならなければ、自給農業は出来ない。土壌で起きている世界を想像する事ができなければ、作物は出来ない。小田原の土壌の世界と、石垣島の土壌の世界は違う。違うが共通することもある。こうした農の日々は知に満ちていて、実に楽しい。未知の世界が切り開かれてゆく。好奇心を満足させてくれる。知的冒険の世界である。
それは動禅も何も変わらない。動禅は呼吸である。その呼吸を探ると言う単純なことのなかに、工夫がある。自分の身体というものを内観して探る。良い呼吸の探究。呼吸を探ると自分の中の気の存在に気付かされる。気は観念的なものではないということに気付く。
生きる喜びの結果が絵に現われることを目標にしている。これはまだまだである。まだまだであるが、今日一日絵が描けることは喜びである。いつか出来るような気がして描いている。こうして楽観の中に生きることが出来ることに感謝するばかりだ。