日本の失われた30年

欠ノ上田んぼの柿の実が付いた。
バブル景気が1991年にはじけて以降、日本経済は長い停滞期に入った。円高によって輸出産業を中心に競争力が弱まる一方、国内消費は冷え込み、デフレに陥った。それから32年。失われた日本はどこに行ったのでしょうか。あの麦わら帽子はどこに行ったのでしょうか。
西城八十の詩である。
ぼくの帽子
母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
ええ、夏、碓氷(うすい)から霧積(きりづみ)へゆくみちで、
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。
母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
僕はあのときずいぶんくやしかった、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。
母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね、
紺の脚絆(きゃはん)に手甲(てこう)をした。
そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね。
けれど、とうとう駄目だった、
なにしろ深い谷で、それに草が
背たけぐらい伸びていたんですもの。
母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう?
そのとき傍らに咲いていた車百合の花は
もうとうに枯れちゃったでせうね、そして、
秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。
母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、
あの谷間に、静かに雪がつもっているでせう、
昔、つやつや光った、あの伊太利麦(イタリーむぎ)の帽子と、
その裏に僕が書いた
Y.S という頭文字を
埋めるように、静かに、寂しく。
藤垈の思い出がよみがえってくる。子供のころの物悲しい良い時代。死んでしまった母さん、を思い出す時間。寂しいけれど思い出は美しい。坊ケ峰へのカンカン照りの野良道。リヤカーに積んだサツマイモの苗の水。あの相模原の開墾地で兄妹の二人が植えたサツマイモは、水が足りないで枯れてしまった。あの二人も食べる物がなくて死んだ。
あの相模原の開墾地のバラック小屋で父と母は出会い。私が生まれた。父は破天荒な生きる勢いで、米軍基地のトイレ板をかっぱらってきては、バラック小屋を建てたのだ。土台まである本建築で、掘っ立て小屋ではない。と米軍に接収されたときには、認定されたと自慢していた。
その父が死んだ歳が真近になった。何とうかうか生きてきた事かと思う。父は母や私たち子どもや、そして兄弟や親せきの端の端迄助けて生きる一生だった。私がいま絵を描いて居られるのもすべて父親のお陰に違いない。父がもう少し自分のことも考えればよかったのにと思うのは、私の勝手な我儘。父の分までと思うばかり。
母は無限にやさしい人だった。どこまでも優しすぎて、悲しいぐらい申し訳ない。いつも麦わら帽子を一緒に探してくれていた。あの山北の開墾端で草取りをすると、何度も何度も、相模原の開墾地の思い出を話した。農業の経験のあった母と、その弟の私にはおじである人のお陰で、私たち家族は戦後の食糧難時代を生き延びたのだ。
父の弟だった静夫おじさんは当時東大の農学部の特別研究生というものだったのだが、食糧難の畑では何の役にも立たなかったと、これもまた繰り返し語られたものだ。静夫おじさんほどやさしい人は居なかった。母があれほどに頑張れたのも静夫おじさんがいたからに違いない。
失われる前には日本があったのだ。それは家族というものがあったという事だ。家族が失われてゆく悲しさらしきものが、一人一人に取り付いている。帰るものが家族がいなくなった日本。子供の為だとか、ご先祖の為などという訳には行かない。お前がこの先崩壊してゆく世界でどう生きるのかと問われている。
確かに人間は一人で生まれてきて、一人で去ってゆく。それでいいのだが、寂しいという事には変わりはない。誰だってあのイタリア麦の帽子を母さんと探しに行きたいのだ。でも霧積川を霧積温泉まで遡行したとしても、帽子が見つかる訳もない。見つからない帽子を折に触れては思い出しながら生きてゆくほかないのが人間の証明。
30年前にあしがら農の会を立ち上げた。別段一人でも構わないと思い始めた会だった。それが今に続いている。のぼたん農園を2年前に始めた。やっぱり一人でもやると思い始めた。こちらも35人になって継続している。その間の30年の間に日本が失われてどこかへ行ってしまったと言われている。
次の日本の希望だと思い、自給農業の活動を続けてきたことだ。次の日本は麦わら帽子の日本だ。どこかへ消えてしまったのでしょうか。農作業を誰もが行う日本だ。自給の暮らしに行かない限りに日本というものは消え去ってゆくだろう。
石垣島であと8年間の年限を頂いた。この間静かに粘り強く麦わら帽子を探してみようと思う。朽ちかけて入るのだろうが、キリギリスの巣になって落ちているに違いない。